2010年7月20日火曜日

ホワッド・アイ・セイ / レイ・チャールズ



ホワッド・アイ・セイ / レイ・チャールズ


 1959年2月のある日。バンドはすでにリハーサルを終えていた。11時になるとレイ・チャールズがやってきた。3テイクを終えるとレイは速やかにアトランティックのスタジオを去った。

 プロデューサーでありサウンドエンジニアであるトム・ダウドは残されたマスターテープの編集作業に取り掛かった。シングル盤の標準的な長さにするために切り落としていた。つまりジュークボックスにふさわしい長さだ。

 マスターには8分からなるものが収録されていた。切り落とした後の音源には怪しい歌詞も含まれていたが、トムは気がつかなかった。マスターディスクをアトランティックの本社に送った。やがて、本社から「削除しろ」とクレームがついた。

 ようやくリリースにこぎつけたとき<WHAT'D I SAY / ホワッド・アイ・セイ>は3つのヴァージョンが完成していた。



 <WHAT'D I SAY / ホワッド・アイ・セイ>は、レイの最高傑作といわれている。
 1959年にリリースしたこのシングル盤はゴールド・デスクを獲得、レイ・チャールズ初のミリオンセラーとなった。

 <WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>のヒットによってレイ・チャールズの存在はポップス・ファンの間でも広く知られる様になった。この曲が、世界中にアメリカの黒人音楽の魅力と、その独特のグルーブ感を伝えるのに充分な役目を果たス役割を担った。
その前年1958年に軍に入隊したエルヴィス・プレスリーの空白を埋めるきっかけにもなった。

 しかし、その一方で、ゴスペルを大胆にアレンジしていたことから敬虔なクリスチャンからは非難されていた。
最初に日本でシングル・リリースされた時、<WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>は<何と言ったら>という邦題が付けられた。

 ヒットから6ヶ月後、レイ・チャールズは育ての親であるアトランテックを離れ、最高の移籍金と複数年契約を条件にABCレコードに移籍する。この時、彼はまだ29歳だった。

 R&B風味の濃い50年代のアトランティック時代、60年代に入ってからのカントリー・ナンバー等も取り上げて、より広いポピュラリティを獲得したABC時代。2つのレイ・チャールズを通して、<ホワッド・アイ・セイ>がレイの人生に投げかけた意味は大きい。

 クリフ・リチャードの<WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>も楽しい。1965年に日本で発売した<ダイナマイト>のB面に収録されていた。

 レイ・チャールズ(Ray Charles Robinson, 1930年9 月23日 - 2004年6 月10日)

 7歳で失明、14歳で孤児になる。盲目の黒人というハンディを背負って、自らのルーツを探すように活動、音楽ひとすじの生涯を過ごした。魂の旅の途中、20年近く麻薬を常用していて、1965年に3度目の逮捕後、ロサンゼルスの更生施設に入所、ようやくヘロインを絶つことに成功した。、1979 年4月24日、ジョージア州議会はレイのもうひとつの大ヒット曲<わが心のジョージア>を正式な州歌と定めている。

 エルヴィス・プレスリーは、レイの作品から<WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>と共に<アイ・ガット・ア・ウーマン><愛されずにいられない>を生涯歌い続けていた。