2017年4月20日木曜日

Let's Twist Again /チャビー・チェッカー





Let's Twist Again / Chubby Checker, Little Richard 


エルヴィス・プレスリーは、1954年 テネシー州メンフィスにある小さなレコード会社サンレコードからデビュー。地方限定でしたが、若者に衝撃が走ります。やがてドサ回り的なライブツアーを展開。

この動きに目をつけた大手レコード会社RCAは、エルヴィス引き抜きにかかります。小さなレコード会社だったサンの社長は、トレードマネーと引き換えにRCAへの転籍を認めます。サンレコードは小さくてもロカビリーの宝庫であり、のちに大成する歴史的なミュージシャンたちを抱えていました。エルヴィスは、そのなかでもピカイチでした。

1956年 エルヴィス・プレスリーがRCAレコ-ドからデビュー。ハートブレイク・ホテルを全米ナンバーワンに押し上げました。その後も立て続きに全米ナンバーワンを連発。
その勢いで全米にロックンロールブームが起こります。

しかし、1958年、”キング・オブ・ロックンロール”エルヴィス・プレスリーは軍隊に召集され、”ロックの神様”チャック・ベリーは逮捕、収監。ビートルズのモデルだったバディ・ホリー、さらにエディ・コクランは事故死、ジーン・ヴィンセントも事故で身障者に、リトル・リチャードは廃業し、神父に。ジェリー・ルイスもスキャンダルで退場というようにロックンロールを牽引したオールタイム・ビッグアーティストは壊滅状態に陥りました。

世界中に衝撃を与えた粗々しいロックンロールに代わって登場したのが、メロディラインが美しいいわゆる「ポップス」でした。「ポップス」はビートルズ、ローリング・ストーンズらイギリス勢(ブリティッシュサウンド、リバプールサウンド)が襲来するまでヒットチャートを飾り続けました。


この間に、ソフトなポップスに突撃するように登場したのが、「ツイスト」(ダンスの名称)でした。「ツイスト」は腰をくねらせて踊る50年代ロックンロ-ル・ダンスの延長にあり、その第一人者が、黒人ミュージシャン、チャビー・チェッカーです。<The Twist>を全米トップに送り込みました。イギリス勢が大挙、押し寄せるまで、痛快な「ツイスト」は世界のダンスシーンを占領、チャビー・チェッカーは陽気で豪快、躍動感のあるロックンロール調ダンスナンバーで一世を風靡しました。



イギリス勢がヒットチャートを塗り潰すようになると、ロックンロールもリズム&ブルース系(ローリング・ストーンズやアニマルズ)が目立つようになり、ポップス、ブリティッシュサウンド、リズム&ブルース。さらにベトナム戦争が始まると、シンプルで楽しいポップスに取って代わるようにフォークが台頭。エルヴィスは召集以前に交わした契約を遂行するため映画に専念。ビートルズもこれまでのサウンドを捨て、スタジオに籠ります。



チャビー・チェッカーは、サウスカロライナで生まれフィラデルフィアで育ちました。後にサーフィン映画で人気者になったティーン・アイドルのフランキー・アヴァロンやフェビアンと同サウスカロライナ高校に通っていた頃に、ピアノを習得。

ツイストは一瞬のブームでしたが、”ゴー!ゴー!”が大流行するまで人気を得ていました。




エルヴィスがいた。



2017年4月19日水曜日

Bruce Springsteen - You Never Can Tell



You Never Can Tell

なんと、カッコイイ曲。
チャック・ベリーといれば「ジョニー・B・グッド」

オリジナルはチャック・ベリー。知る必要もないほど、カッコイイ。

オーディエンスのリクエストに応えて、
カッコよすぎる即興のパフォーマンス。

ブルース・スプリングスティーン

エルヴィスに会いたくて、
エルヴィス邸に忍び込んだロック小僧の一途さは
ビッグネームになっても不変。

ブルース・スプリングスティーン


青春時代のままにロックと純愛している人生は素敵ですね。


人によって違うと思いますが、
心開いてつきあえそうで、案外そうでないのが親子。
父親と息子は特にそうかも知れません。
人間の会話って、時にはかまととぶったり、色つきの言葉で話すから、
相手の心に入り込みやすいときもあると思うのですが、
父と息子では色つき言葉を使わないですよね。


それだけにもっとも近くて遠い人であることも珍しくありません。

父親は色のついた言葉を息子に使わない、語ろうとしない。
息子もそんなものは求めもしない。
しかし何かを語ろうとしたとき、色のついた言葉が必要なときもある。
そんな時、語る前に黙ってしまうことを決め込むことがあるのでは?




人生について
わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
それは得難く、そして美しいものだ。
仮装して、だまくらかしながら、それは現れる。
大笑いしながら、現れることもある。
人生について
わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
なんにも。
わたしの答えは、わたしだけのもの。
おまえには通用しないだろう。
樹木と同じで、わたしたちは共通の根を持っている。
ところがその育ち方の違うこと!


 (「今日は死ぬのにもってこいの日 」より)
  



エルヴィスがいた。

2017年4月16日日曜日

ワンダフルワールド ハーマンズ・ハーミッツ


Wonderful World / Herman's Hermits


ビートルズが語られると必ずといっていいほど66年6月29日武道館での来日公演が語られて、日本中が熱狂していたような印象を与えるが、後付けのストーリーだ。この世界ツアーは6月24日のドイツから始まった。3日間のドイツ公演を終え、次に向かった国が日本だった



この当時の実際にはフランスのキュートな新人シルヴィ・ヴアルタンの<アイドルを探せ>はレコードが入手できないほど売れていたし、カンツォーネも爆発的な人気でボピー・ソロの「ほほにかかる涙」は頻繁に流れていた。



ハーマンズ・ハーミッツは1964年8月に発表したデビュー曲「朝からゴキゲン」がイギリスで大ヒットし、翌1965年にはビートルズの成功に続くべくアメリカに上陸する。

ヴォーカルのピーター・ヌーンのアイドル的ルックスと、清潔感のある親しみやすいイメージ戦略で高い人気を博し、「ミセス・ブラウンのお嬢さん」「ヘンリー8世君」など多くの全米トップ10ヒット曲を連発した。

1965年から1966年にかけてアメリカで大きな人気を獲得し、1966年にはMGMから主演映画『ホールド・オン!』が封切られ、来日公演もやってのけた。
1967年には「見つめあう恋」が大ヒットする。
しかし以降の全米ツアーでは前座のザ・フーやマッシュマッカーンに食われる始末となる。
アメリカでは「雨にさよなら」「恋のミュージアム」などのスマッシュヒット(イギリスではノーチャート)を放つも、かつての勢いはなくなる。1968年には映画『レッツ・ゴー!ハーマンズ・ハーミッツ』が封切られるも回復策にはならず、「恋は晴れのち曇り」「スリーピージョー」を最後に全米チャートから姿を消した



やがて、エルヴィスの過去のアルバムに挿入された楽曲をリクエストで選んだエルヴィス・プレスリーの主演映画「いかすぜ!この恋」と「ポップ・ギヤ」は併映された。

イギリス・ブリティッシュバンド総出演の映画では、ビートルズが頭一つ抜けていたものの、ほぼバンド乱世の様相を見せていた。

新旧、過去と可能性の2本立ては、奇抜だった、ロックンロールってその程度にしか受け止めていられなく、まるでサーカスがやってきたような雰囲気だ。





<ヘンリー8世君>

ぼくはヘンリー8世さ。ぼくがね。
ヘンリー8世だよ、ぼくは。
ぼくがだよ。

ぼくは隣の未亡人と結婚したんだ。
彼女はもう7回結婚してたんだけどね。

そして、彼女の結婚相手の名前はみんなヘンリーなんだ。(エネリー!)
ウィリーでもサムでもだめなんだ。(サムはダメ!)

ぼくは彼女にとっての8番目のヘンリーという名前の旦那。
だからヘンリー8世なのさ、ぼくは(^▽^)

ディブ・クラーク・ファイブ、ハーマンズ・ハーミッツなど、いまにもビートルズを追い越しそうな雰囲気だった。ローリング・ストーンズもいたが、レースに追いついたのは「サティスファクション」「黒くぬれ!」あたりからだ。その内、アメリカ勢のバンドも登場して、ポップス市場は百花繚乱の様相だった。



ビートルズが、ひときわ目立ったのは、「ビートルズがやってきたヤア!ヤア!」に続き正月映画として「4人はアイドル、ヘルプ」が公開され、日本公演が行われたことに、プラス「ラバーソウル」がリリースされたあたりだ。

「ラバーソウル」「リボルバー」はそれまでのビートルズと明らかに違うし、ブリティッシュバンドとも違う。



ラバー・ソウル』(Rubber Soul)は、イギリスにおいて1965年12月3日に発売された、ビートルズの6作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム、アメリカでは11作目のアルバム。

ビートルズは「ラバーソウル」でロックンロールで使用されなかった楽器を使うことで音楽の幅を拡げることに成功した。このアルバムの代表曲<
ノルウェーの森>ではシタールを採用した。ほぼ横一線のブリティッシュロックのレースから抜け出たのです。

さらに<
ミッシェル><ガール>ではギリシャ風のギター・ラインを、<嘘つき女>でファズ・ベースを、そして<イン・マイ・ライフ>ではバロック音楽風のピアノ・ソロを使用しています。

クリスマス商戦に間に合わせるように5人目のビートルズと呼ばれていたプロデューサー、ジョージ・マーティンのもと10月12日から11月15日の1ヶ月あまりの期間で製作されたこのアルバム製作前には、すでにインスピレーションが働いていたと想像できます。

なかでもフォーク・ロックの旗手であった<ミスタータンブリンマン>を大ヒットさせたバーズボブ・ディランからの影響は有名です。
ジョージ・ハリソンはバーズのデヴィッド・クロスビーにインドの歴史的音楽とシタールを紹介されます。
ジョージ・ハリスンはすぐにのめり込み、シタールのレッスンを高名なインドのシタール演奏の巨匠、ラヴィ・シャンカルから受けます。

偶然の積み重ねは必然になり、用意は整っていたのです。
これらの波と時代の洗礼を受けてビートルズは変身したのです。

ジャケットにも、これまでのポップシーンのパターンを打ち破った。アルバムは成功し、「4人はアイドル、ヘルプ」に代わってアイドルでないビートルズがトップに立った。「助けてくれ」と訴えていたジョン・レノンをとりあえず助けたのだ。

そうかい、君がヘンリー8世かい。
ミセス・ブラウンのお嬢さんも、
僕たちにはどうでもいいことだけどね、
よろしくね、


このきっかけとなったのは世界ツアーなかでも日本を含むアジアツアーです。

そしてここからアルバム中心のミュージシャンになり、ライブもしなくなる。



よくは分からないが、日本公演の後、アジアツアーのどこかで暴行まがいの仕打ちを受けたことで、音楽性に変化が起こってからだ。 そのどこかとは、フィリピンだ。1966年7月4日、マニラのリザール・メモリアル・スタジアムでのコンサート後から起こった。ビートルズは準備されていた、当時の大統領夫人イメルダ・マルコス主催のパーティをボイコットしたのだ。マネージャーのエプスタインは事前に断っていたが、現地のプロモーターがメンツの為にイメルダ夫人サイドに伝えなかったことで起きた事件だった。


すっぽかした代償は大きかった。
翌日の新聞では大々的に『ビートルズ、大統領一家を侮辱!』と大々的に報じた。TVには、イメルダ夫人が『裏切られた!』と絶叫する光景が映し出されていた。民族意識の高いフィリピンでは、たちまち国内にビートルズに対する反感が広まった。

 空港では200人もの激怒した市民から酷いブーイングを受けながら、ビートルズ一行は、もみくちゃにされてしまった。エプスタインはケガをし、転倒したロード・マネージャのマルエバンスは何度も蹴られた。逃げるように乗り込んだ飛行機だが、離陸許可はおりなかった。

この衝撃がビートルズを変えた。



エルヴィスがいた。

2017年4月9日日曜日

ジョニー・B:グッド / チャック・ベリー



Chuck Berry - Hail! Hail! Rock 'N' Roll



Johnny B. Goode /Chuck Berry


ELVIS :THAT’S THE WAY(邦題 エルヴィス・オン・ステージ)の大ヒットを受けて2作目のドキュメントとして製作されたELVIS ON TOUR((邦題 エルヴィス・オン・ツアー)のオープニングで登場するのが<ジョニー・B・グッド>だ。

「ロックの神様」と称されるチャック・ベリーの曲を「ロックの王様」と称されるエルヴィス・プレスリーが歌う。

なにもよりによってこの曲をオープニングに持ってくることはないだろうとエルヴィス・ファンなら思ったはずで、エルヴィス死後にリストアされたDVDでは、オープニングは変更されている。

つまりエルヴィス自身は、<ジョニー・B・グッド>もチャック・ベリーも好きだったのだ。1958年シングルとして発売された<ジョニー・B・グッド>はチャック・ベリー一連のヒット曲のなかでも特別な意味を持つ。

ロックンロールスタンダード・ナンバーの一つとして多くのビッグアーティスト、ビック・バンドがカバーしているのみならず、特徴的なイントロをパクっている。

ロンドンパンクの雄、セックス・ピストルズもカヴァーしているように、つまり誰でもが演奏しやすいのが特徴だともいえる。

そこにセックス・ピストルズがカヴァーした意味があるし、ロックンロールの原点ともいうべき曲であり、アーティスト(チャック・ベリー)なのだ。

70年代初頭、当時まだ無名だったブルース・スプリングスティーンは地方のコンサートで前座を務めた。

その様子はドキュメンタリー「ヘイル!ヘイル!ロックンロール」に収録されている。




「やっとチャック・ペリーが入ってきた。一人きりで、持ち物はギターケースだけ。いうことは、会場まで自分で車を運転してきたのだろう。チャックは、俺の横を通りすぎると、一直線にプロモーターのオフィスに歩いていった。」

ギャラのやりとりだろう。戻ってきたチャック・ペリーにブルース・スプリングスティーンは尋ねた。「何を演るんですか」

返事は「チャック・ベリーの曲を演るのさ」としか言わなかった。

ステージが始まったが、打ち合わせなしなので、なにをどうしていいのか分からないブルースやバンドの連中には緊張が走った。

おかまいなしにチャックはイントロをかきならした。

どうしていいのか分からなかった即席のバンドはその音でキーを理解し、ついていくと大歓声の客席と一体になって会場はロックンロールの熱狂に包まれた。

一曲目が終わると、チャック・ペリーはブルース・スプリングスティーンの元によってきて、「よお、若いの、稼ぐんだ」と声をかけたという。

チャック・ベリーにとって、<モンキー・ビジネス>を歌うまでもなく、音楽は終始一貫して「金儲け」なのだ。

そして興奮のうちに、コンサートが終了すると、あっという間にギターをケースにしまって運転してきた車に乗って立ち去ったという。

おそらくエルヴィスも監督も、チャック・ベリーのスタイルを知っていたのだろう。そしてコンサートの規模が違っても「エルヴィス・オン・ツアー」のオープニングにふさわしいと判断したのだろう。

チャック・ベリーのスタイルを見てられないと思ったのが畏敬の念を抱くキース・リチャーズだったが、セックス・ピストルズは巨大産業になる前のロックンロールのシンボリックな姿と受け止めのだろう。それもまたビジネスのかたちであったが。

しかし、王者エルヴィスは本当のところ、どう考えていたのだろう?
初期のメガヒット<ハウンド・ドッグ>の録音では100回近いテークを録り、バンドをヘトヘトにさせたが、60年代のヒット曲<悲しき悪魔>では一発で決めている。

どちらにしても、チャック・ベリーもエルヴィス・プレスリーも、ロックが巨大産業になる前のアーティストであり、彼らを、彼らの音楽や作品をどう取り扱ったらいいのか、誰も分からなかった時代のアーティストであり、「興行」というやり方が当たり前だった頃の伝説だ。


チャック・ベリーの名曲「ジョニー・B・グッド」には、貧しさから抜け出そうする力がみなぎっている。



エルヴィスがいた。