2017年4月16日日曜日

ワンダフルワールド ハーマンズ・ハーミッツ


Wonderful World / Herman's Hermits


ビートルズが語られると必ずといっていいほど66年6月29日武道館での来日公演が語られて、日本中が熱狂していたような印象を与えるが、後付けのストーリーだ。この世界ツアーは6月24日のドイツから始まった。3日間のドイツ公演を終え、次に向かった国が日本だった



この当時の実際にはフランスのキュートな新人シルヴィ・ヴアルタンの<アイドルを探せ>はレコードが入手できないほど売れていたし、カンツォーネも爆発的な人気でボピー・ソロの「ほほにかかる涙」は頻繁に流れていた。



ハーマンズ・ハーミッツは1964年8月に発表したデビュー曲「朝からゴキゲン」がイギリスで大ヒットし、翌1965年にはビートルズの成功に続くべくアメリカに上陸する。

ヴォーカルのピーター・ヌーンのアイドル的ルックスと、清潔感のある親しみやすいイメージ戦略で高い人気を博し、「ミセス・ブラウンのお嬢さん」「ヘンリー8世君」など多くの全米トップ10ヒット曲を連発した。

1965年から1966年にかけてアメリカで大きな人気を獲得し、1966年にはMGMから主演映画『ホールド・オン!』が封切られ、来日公演もやってのけた。
1967年には「見つめあう恋」が大ヒットする。
しかし以降の全米ツアーでは前座のザ・フーやマッシュマッカーンに食われる始末となる。
アメリカでは「雨にさよなら」「恋のミュージアム」などのスマッシュヒット(イギリスではノーチャート)を放つも、かつての勢いはなくなる。1968年には映画『レッツ・ゴー!ハーマンズ・ハーミッツ』が封切られるも回復策にはならず、「恋は晴れのち曇り」「スリーピージョー」を最後に全米チャートから姿を消した



やがて、エルヴィスの過去のアルバムに挿入された楽曲をリクエストで選んだエルヴィス・プレスリーの主演映画「いかすぜ!この恋」と「ポップ・ギヤ」は併映された。

イギリス・ブリティッシュバンド総出演の映画では、ビートルズが頭一つ抜けていたものの、ほぼバンド乱世の様相を見せていた。

新旧、過去と可能性の2本立ては、奇抜だった、ロックンロールってその程度にしか受け止めていられなく、まるでサーカスがやってきたような雰囲気だ。





<ヘンリー8世君>

ぼくはヘンリー8世さ。ぼくがね。
ヘンリー8世だよ、ぼくは。
ぼくがだよ。

ぼくは隣の未亡人と結婚したんだ。
彼女はもう7回結婚してたんだけどね。

そして、彼女の結婚相手の名前はみんなヘンリーなんだ。(エネリー!)
ウィリーでもサムでもだめなんだ。(サムはダメ!)

ぼくは彼女にとっての8番目のヘンリーという名前の旦那。
だからヘンリー8世なのさ、ぼくは(^▽^)

ディブ・クラーク・ファイブ、ハーマンズ・ハーミッツなど、いまにもビートルズを追い越しそうな雰囲気だった。ローリング・ストーンズもいたが、レースに追いついたのは「サティスファクション」「黒くぬれ!」あたりからだ。その内、アメリカ勢のバンドも登場して、ポップス市場は百花繚乱の様相だった。



ビートルズが、ひときわ目立ったのは、「ビートルズがやってきたヤア!ヤア!」に続き正月映画として「4人はアイドル、ヘルプ」が公開され、日本公演が行われたことに、プラス「ラバーソウル」がリリースされたあたりだ。

「ラバーソウル」「リボルバー」はそれまでのビートルズと明らかに違うし、ブリティッシュバンドとも違う。



ラバー・ソウル』(Rubber Soul)は、イギリスにおいて1965年12月3日に発売された、ビートルズの6作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバム、アメリカでは11作目のアルバム。

ビートルズは「ラバーソウル」でロックンロールで使用されなかった楽器を使うことで音楽の幅を拡げることに成功した。このアルバムの代表曲<
ノルウェーの森>ではシタールを採用した。ほぼ横一線のブリティッシュロックのレースから抜け出たのです。

さらに<
ミッシェル><ガール>ではギリシャ風のギター・ラインを、<嘘つき女>でファズ・ベースを、そして<イン・マイ・ライフ>ではバロック音楽風のピアノ・ソロを使用しています。

クリスマス商戦に間に合わせるように5人目のビートルズと呼ばれていたプロデューサー、ジョージ・マーティンのもと10月12日から11月15日の1ヶ月あまりの期間で製作されたこのアルバム製作前には、すでにインスピレーションが働いていたと想像できます。

なかでもフォーク・ロックの旗手であった<ミスタータンブリンマン>を大ヒットさせたバーズボブ・ディランからの影響は有名です。
ジョージ・ハリソンはバーズのデヴィッド・クロスビーにインドの歴史的音楽とシタールを紹介されます。
ジョージ・ハリスンはすぐにのめり込み、シタールのレッスンを高名なインドのシタール演奏の巨匠、ラヴィ・シャンカルから受けます。

偶然の積み重ねは必然になり、用意は整っていたのです。
これらの波と時代の洗礼を受けてビートルズは変身したのです。

ジャケットにも、これまでのポップシーンのパターンを打ち破った。アルバムは成功し、「4人はアイドル、ヘルプ」に代わってアイドルでないビートルズがトップに立った。「助けてくれ」と訴えていたジョン・レノンをとりあえず助けたのだ。

そうかい、君がヘンリー8世かい。
ミセス・ブラウンのお嬢さんも、
僕たちにはどうでもいいことだけどね、
よろしくね、


このきっかけとなったのは世界ツアーなかでも日本を含むアジアツアーです。

そしてここからアルバム中心のミュージシャンになり、ライブもしなくなる。



よくは分からないが、日本公演の後、アジアツアーのどこかで暴行まがいの仕打ちを受けたことで、音楽性に変化が起こってからだ。 そのどこかとは、フィリピンだ。1966年7月4日、マニラのリザール・メモリアル・スタジアムでのコンサート後から起こった。ビートルズは準備されていた、当時の大統領夫人イメルダ・マルコス主催のパーティをボイコットしたのだ。マネージャーのエプスタインは事前に断っていたが、現地のプロモーターがメンツの為にイメルダ夫人サイドに伝えなかったことで起きた事件だった。


すっぽかした代償は大きかった。
翌日の新聞では大々的に『ビートルズ、大統領一家を侮辱!』と大々的に報じた。TVには、イメルダ夫人が『裏切られた!』と絶叫する光景が映し出されていた。民族意識の高いフィリピンでは、たちまち国内にビートルズに対する反感が広まった。

 空港では200人もの激怒した市民から酷いブーイングを受けながら、ビートルズ一行は、もみくちゃにされてしまった。エプスタインはケガをし、転倒したロード・マネージャのマルエバンスは何度も蹴られた。逃げるように乗り込んだ飛行機だが、離陸許可はおりなかった。

この衝撃がビートルズを変えた。



エルヴィスがいた。

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