2011年11月19日土曜日

Because/ The Dave Clark Five






Because/The Dave Clark Five

Top Of The Popsの異名をとったDC5つまりデイヴ・クラーク・ファイヴ (The Dave Clark Five)は、1960年代に起こったイギリスの侵略と呼ばれたブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)の立役者の一員であり、その中でも中心的な存在のひとつ。マージー・ビート(リバプール・サウンド)と呼ばれた一連のブリティッシュ勢にあってひときわ突出していた。

<Glad All Over>のナンバーワンヒットでブレイクし、アメリカ進出にも成功し、カーネギーホールでのライブを行ったバンドである。デイヴ・クラーク、マイク・スミス、レニー・デビッドソン、リック・ハクスリー、デニス・ペイトンの5名からなる。

初期のビートルズと十分に張り合えるサウンドにして異質。ビートルズと共にもっともアメリカで成功したグループだ。エド・サリバンシューにも最多出演しているのは、そのスマートさによるものだろう。最初の頃、ローリング・ストーンズは不良性とマナーの悪さで失敗している。個人的にはビートルズより好きだ。テナーサックス、オルガンをフィーチャーしたボリュームがありながらも実にシャープで爽やか、ルックスのスマートさにぴったりのサウンドが特徴的で一度聴いたら耳に残るストレートなサウンドが魅力だ。

<Do You Love Me><Anyway You Want It><Over and Over ><Catch Us If You Can><I like It Like That><Can't You See That She's Mine><WHEN><Darling I love you><DON'T BE TAKEN IN><Red Balloon><I Need You, I love You><Julia>

さらにエルヴィス・プレスリー大ヒット<Loving You>ファッツ・ドミノの<Blueberry Hill>のカヴァーなど人気は高かった。

彼等のヒット曲の歴史を刻み込んだベストアルバムは希少価値のある文句なしの宝物だ。



なかでも<Because/ ビコーズ>は、<WHEN / 忘れえぬ君>と共にシンプルだが、オルガンを効かせたメロディラインがとびっきり美しいロッカ・バラードの大傑作。その人気の高さはいまでもカラオケにあることからも伺える。思い出を持った人も多いだろう。

1967年に人気に翳りが出たのは社会情勢の影響が大きい。この時期にはベトナム戦争が激化。明るくスマートな音楽、映画はほとんど失速したのは時代の気分である。太陽のようなビーチボーイズさえ変貌を遂げたように、ビートルズが人気をキープしたのはドラックカルチャーとうまく融合したことが大きい。一方、デイヴ・クラークは根がスポーツマンである。澱んでいくアメリカンポップズの流れに合わなくなっても当然と言える。1970年に解散した。

活動期間は短かったが、いつまでも忘れない人は少なくない。当時の若者の心に鮮やかな印象を残して去った。春風のようなグループだった。2008年3月10日にロックの殿堂入りを果たしている。デイヴ・クラーク・ファイヴ、彼らに拍手を!

2011年11月4日金曜日

LET IT BE / The Beatles


LET IT BE / レット・イット・ビー

ロックンロールは1954年に始まった。
ビートルズは、1970年4月10日にポール・マッカートニーの脱退を公表によって事実上解散した。

歌うこと、歌声にできることに生涯をかけたエルヴィス・プレスリーは、黒人と白人の垣根を破壊して、間違いなく社会を変えた。それを体験したのが「エルヴィス以前にはなにもなかった」と語ったジョン・レノンであり、ポール・マッカートニー、キース・リチャーズ、ミック・ジャガー、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンたちで、音楽ができることを体験から学んだ彼らは、歌にできることに自分を賭けた。彼らはそれぞれにオリジナリティーを打ち出し、それぞが光り輝いている。

歌うこと、歌声にできることに自分を賭けたエルヴィス、
歌にできることに自分を賭けたビートルス
エルヴィスとビートルズの決定的な違いがそこにあり、それゆえ違う道を歩んだ。

「エルヴィス以前にはなにもなかった」とは・・・彼らが学んだことは、「君のままでいんだよ」ということだった。つまり君がやりたいようにやればいいんだ。他人に迷惑さえかけなければね。・・・吉田拓郎が<ビートルズが教えてくれた>で歌ったことだ。

そのビートルスが、幕引きに歌ったのが<LET IT BE>である。

なんともすごい★★★★★ 歌舞伎なら大見得切った花道である。事実はともかく偶然の出来事であったにしても、このタイミングでの解散には震えが来て、拍手喝采さえできなくなる。
一方のエルヴィスは1969年には、長い映画生活に別れを告げ、ステージにカムバック、本来の自分を取りもどしたが、そのステージで取り上げた一曲が、<LET IT BE ME>だ。 MEがあるとないとで意味が全然変わるが、そのままエルヴィスとビートルズの違いに通じていて楽しい。
それにしてもエルヴィスがいなkればビートルズはなかったというように、両者から発信された「あるがままに」というメッセージは胸を打つ。



そうして、もうひとり「あるがままに」生きて去ったヒーローがいる。ビートルズが好きで、社名までビートルズのアップルを使ったアップル社のスティーブ・ジョブズ氏である。コンピュータに道を発見し、気がつけばiPod、iTunesで、音楽配信のカリスマになっていた。その生き様からも<LET IT BE>が聴こえてくる。彼らは <BE~存在のあり方>で愛と勇気を贈ってくれた。私たちは決してそれを忘れてはいけない。

クレージーな人たちがいる
反逆者、厄介者と呼ばれる人たち
四角い穴に 丸い杭を打ちこむように
物事をまるで違う目で見る人たち

彼らは規則を嫌う 彼らは現状を肯定しない
彼らの言葉に心をうたれる人がいる
反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる
しかし 彼らを無視することは誰にもできない
なぜなら、彼らは物事を変えたからだ
彼らは人間を前進させた

彼らはクレージーと言われるが 私たちは天才だと思う
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが
本当に世界を変えているのだから。

Think Different(アップルCM)

2011年7月22日金曜日

「メイン・ストリートのならず者 / ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)



「メイン・ストリートのならず者」 / ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)


三、四千年前の人間の祖先のことを思い出してみろよ。
骨を見つけ、
それを岩の上で打ち砕いた男------。
彼は満月を見上げる。
大声で吠えた。
それが音楽の起源。
----それこそがロックンロールだ。
キース・リチャーズ

ロックバンドは星の数ほどあるが、泣く子も黙る最高・最強ロックバンドといえばローリング・ストーンズ(The Rolling Stonesに止めをさす。そういうと、ストーンズ特有の一つの音楽形態にこだわり続け、年長者バンドらしく同じタイプの演奏を頑なに続けていると思い込んでいる人も多いだろうが、そうはいかない。

ローリング・ストーンズは、その名の通り転がる石のように、デビュー以来、30年以上も、先人への畏敬の念を片時も忘れることなく、いまの空気と確実にシンクロして常に最先端の音楽を、第一線に立ち続けて送り込んでくる偉大すぎるバンドだ。これほどのバンドは他にいない。

ロンドンのR&B シーンから、チャック・ベリーのカヴァー曲「カム・オン」でデビューしたのが1963年6月こと。バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの名曲"Rollin' Stone"にちなんで、当時リーダーであったブライアン・ジョーンズが命名した。その名の通り彼らはシカゴ・ブルースやR&B を深く愛しており、初期の頃はシカゴ・ブルースやR&B のカヴァーを多くこなした。
やがて、その中からインスピレーションを得て、自分たちのオリシナルなサウンドを徐々に磨きをかけ構築していく。R&Bの先人をリーダーにしていた彼らこそニューリーダーとして存在感を強くしていく。

ミック・ジャガー&リチャーズ・キースが曲作りを始めてからは、先人の音楽をベースにしながらも、独自の個性を発揮。数多くのヒット曲を連発。特に60年代はブライアン・ジョーンズが多才ぶりを発揮して音楽的な側面を支えた。

よくライバルにビートルズを引き合いに出されたが、その音楽は本質的に違っていた。「アングロ・サクソン的」なビートルズとは比較にならないブラッキーで重いサウンドは黒人音楽にルーツをもつ伝統と「白人なのに黒人のように歌える」エルビス・プレスリーのロックンロールの創造を基礎にしながらも、それらを越えるかのように研ぎ澄まされた「黒人のようにR&Bを歌う」音楽は唯一無二にして強烈である。

エルヴィス・プレスリーの活躍がビートルズ、ローリング・ストーンズを生んだのと同じく、あらゆる黒人音楽を吸収し創造したローリング・ストーンズの活躍は、米英で白人R&Bバンドが多数登場するきっかけとなった。


エルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリー、リトル・リチャード、そういう男たちがオレを駆り立てたんだ。


キース・リチャーズ


全世界でのアルバム総売り上げは、2億枚以上である。 代表曲になるヒット曲は数多く「ひとりぼっちの世界」「19回目の神経衰弱」「サティスファクション」「黒くぬれ」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスを転がせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」などがある。

アルバム「メイン・ストリートのならず者」 (1972) は屈指の名盤だ。


ブライアン・ジョーンズ(Louis Brian Hopkin Jones、1942年 - 1969年)
レコードデビュー時から在籍で、バンドの初代リーダー。
担当:ギター、ハーモニカ(他にダルシマー、マリンバ、シタールなど多くの楽器を演奏。一部の曲でバッキング・ボーカル)。
1969年に急逝。死因は不明。自殺説。事故説、他殺説がある。

ミック・ジャガー(Sir Michael Phillip Jagger、1943年~ )
レコードデビュー時から在籍、ブライアンの死後、2代目のリーダーとしてボ・ディドリーに任命された。2003年12月12日、英国においてナイトの称号を授与された。
担当:リードボーカル、ハーモニカ(曲によってギター、キーボードなどを担当することもある)。

キース・リチャーズ(Keith Richards、1943年~ )
レコードデビュー時から在籍。ミックと共にバンドの2大看板。
担当:ギター、バッキング・ボーカル(一部の曲でベースギター、リードボーカルを担当)。

チャーリー・ワッツ(Charles Robert Watts、1941年~)
レコードデビュー時から在籍。メンバーの中で、唯一初婚を貫いている。
担当:ドラムス。デビュー前から、ジャズ・ドラマーのキャリアがある。

ビル・ワイマン(Williams Parks、1936年~ )
レコードデビュー時から在籍。1991年脱退。脱退後のベースギターは、ダリル・ジョーンズがサポート・メンバーとして担当している。
担当:ベースギター("In Another Land" 1曲のみリードボーカル)。


ミック・テイラー(Michael Kevin Taylor、1948年~ )
1969年、ブライアン・ジョーンズの後任として加入するが、1974年脱退。
担当:ギター(一部の曲でベースギター)。

ロン・ウッド(Ronald David Wood、1947年~ )
1975年、ミック・テイラーの後任として加入した。
1968年から1969年にかけては、ベーシストとしてジェフ・ベックのアルバムとツアーに参加していた。その後、フェイセズでギターを担当していたが、フェイセズが解散したことでジェフ・ベックの推薦でストーンズに加入した。1993年に契約書上で正式メンバーになった。1975年、ミック・テイラーの後任にジェフ・ベック自身が誘われたが、それを拒否ロン・ウッドをベックが推薦した。
担当:ギター、バッキング・ボーカル(一部の曲でベースギター他)。




大体、誰も彼もがいつも、俺たちに《しわくちゃロッカー》だとかいろんな難癖をっけてくるわけだしさ。
『一体、じいさんたちはなにをやらかすっもりだ』っていうね。
だから、俺は言わせてもらいたいよ。
デューク・エリントンを見てみろってんだ。
わかるかい?
年齢なんざ関係ねえんだ。
それなのに、毎年毎年『ストーンズはまだ本当にやれるのか?』って話になるわけだ。
はっきり言わせてもらえば、やれるかやれないかくらいはてめえで一番わかってるってことだよ。



キース・リチャーズ



2011年6月26日日曜日

ワイルドで行こう / ステッペンウルフ


ワイルドで行こう BORN TO BE WILD
     / ステッペンウルフ STEPPENWOLF

なにかに取り付かれたようにして、風に挑んで行く・・・・BORN TO BE WILD風と戦うために生まれて来たように疾走する。




ステッペンウルフはドイツの文豪、ヘルマン・ヘッセの作品「荒野の狼」に由来する。

ステッペンウルフのリード・ボーカリストであり、リーダー的な存在だったジョン・ケイは、1944年生まれのドイツの出身。1958年、軍隊に入隊、ドイツに派遣されたエルヴィス・プレスリーと入れ替わるように、母親とともにカナダ(トロント)に移住する。ロックンロールに親しむ日々を過ごし、ジョン・レノンやミック・ジャガーがそうであったように、ジョン・ケイもロック・ミュージシャンをめざす。

ステッペンウルフに先立ち、スパローを結成するが金銭的な都合から1967年に解散。傷心のジョン・ケイに新グループ結成のチャンスを与えたのがダンヒル・レコードのプロデューサー、ガブリエル・メクラーだ。スパローのメンバー二人に、新メンバー、マイケル・モナーク(G)とベースのラシュトン・モレイ(B)を加えてステッペンウルフを結成する。

デビュー・アルバム「ステッペンウルフ」から「ピックアップした<ワイルドで行こう>が大ヒット映画「イージー・ライダー」のサウンドトラックに採用されたオープニングに使われたことでテーマ曲のような印象を与えて全米はもちろん、世界的に大ヒットした。

歌も演奏も一丸となったアグレッシブでソウルフルなプレイは聴けば聴くほど心を揺さぶる。その理由は当時、複雑化する傾向にあったロックミュージックの流れを汲み取りながらも、実はシンプルな構成でロックンロール本来の魅力をストレートに表現している点にある。実に素晴らしく巧みに考え抜かれた傑作なのだ。

それは「イージー・ライダー」の二人とジャック・ニコルソンが演じた弁護士の心根にフィットしていて、時代を射抜いた名曲と言えるように思う。



■イージー・ライダー

1.ザ・プッシャー(ステッペンウルフ)
2.ワイルドで行こう(ステッペンウルフ)
3.ザ・ウェイト(スミス)
4.ワズント・ボーン・トゥ・フォロー(ザ・バーズ)
5.イフ・ユー・ウォント・トゥ・ビー・ア・バード(ザ・ホリー・モダル・ラウンダーズ)
6.ドント・ボガート・ミー(フラタニティー・オブ・マン)
7.イフ・シックス・ワズ・ナイン(ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス)
8.キリエ・エレイソン(エレクトリック・プルーンズ)
9.イッツ・オールライト・マ(ロジャー・マッギン)
10.イージー・ライダーのバラード(ロジャー・マッギン)

1.THE PUSHER/STEPPENWOLF
2. BORN TO BE WILD/STEPPENWOLF
3. THE WHEIGHT/SMITH
4. WASN'T BORN TO FOLLOW/THE BYRDS
5. IF YOU WANT TO BE A BIRD/THE HOLY MODAL ROUNDERS
6. DON'T BOGART ME/FRATERNITY OF MAN
7. IF SIX WAS NINE/THE JIMI HENDRIX EXPERIENCE
8. KYRIE ELEISON/MARDO GRAS[WHEN THE SAINTS]/THE ELECTRIC PRUNES
9. IT'S ALRIGHT MA[I'M ONLY BLEEDING]/ROGER McGUINN
10. BALLAD OF EASY RIDER/ROGER McGUINN

2011年6月11日土曜日

オールドタイム・ロックンロール / ボブ・シーガー


アゲインスト・ザ・ウインド / ボブ・シーガー

ボブ・シーガーをご存知か?

俺は古いロックンロールが好きなのさ
俺の魂を癒してくれる
俺を過去の遺物と呼ぼうが
時代遅れと呼ぼうが
下り坂と呼ぼうが
俺の魂を癒す古いロックンロールが好きなのさ

 (オールドタイム・ロックンロール/ボブ・シーガー)


プレスリーもビートルズも、もういない80年初夏。
ボブ・シーガーは<アゲインスト・ザ・ウインド>という曲をビッグヒットさせた。めまいがするほど美しいロックンロールだ。
それは『奔馬の如く』の邦題のアルバムタイトルでリリースされた。




デトロイトの巨人と呼ばれた男は、日本ではさほど知られていない。しかしストリートロックの彼の音楽は、ブルース・スプリングスティーンと共に心をわじづかみにして離さない。なかでも<アゲインスト・ザ・ウインド>は身震いするほど美しい。

”風に向かって、俺たちは風に向かって走っている。俺たちは若くて強い。俺たちは風に向かって走っている” そうだ、風に向かって進むことは、いつだって楽しい。

プロレスラーのような風貌、それにしても<アゲインスト・ザ・ウインド>・・・そのタイトル通りに”今でもまだ風に向かって走っているぜ” 風景が沁みます。ピアノの音、印象的なリフレインがストレートな男の心情と一体になって疾走、心を揺らす曲だ。イーグルスのメンバーがバックコーラスに参加していた。

全米約150紙の新聞に掲載されているコラムを書く、ボブ・グリーンがボブ・シーガーに触れていること。
その記事は『エスクワァイア』誌に書いたコラムを集めた書籍『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』に掲載されたものだが、それがエルヴィスに関するコラム2本と連なって書かれていること。そしてその記事が、連なっているせいなのか、妙にエルヴィスの匂いを含んでいるからだ。

因に『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』は音楽についてのコラムを主としたものでないが、この本にはエルヴィスの名が出てくるものが全部で4つある。今回はボブ・シーガーについてのものと、『エルヴィスが笑っている』をピックアップ。次回は『エルヴィスが死んだ日』ともう一本をピックアップしたい。



ロックがすべて

デトロイト・コーポ・アリーナ、音のこだまする広大な空間。ボブ・シーガーがステージ前方に進みでた。ギターを手にした彼は、『メイン・ストリート』の出だしのフレーズを歌いはじめた。「真夜中の街かどに立っていたのを覚えている/勇気をふるい起こそうとして…・:」

声が遠くまで届かない。土曜日の午後遅い時間、音響装置のテスト中だ。マイクロフォンの調子が悪い。あと3時間もすれば、アリーナは2万人以上のファンで埋めつくされる。だが今はまだホールの入口には鍵がかけられ、シーガーの声を聴く聴衆はひとりもいない。

ステージから数メートルのところまでしか声が届かないので、さらに二、三小節歌ったところで彼は歌うのをやめた。そして、何千席もの空席を見わたした。今夜、ついに彼は故郷に錦を飾ろうとしていた。中西部の小さな世界の外で名を成そうと15年間下積み生活を送ったあと、シーガーのアルバムはアメリカで売上ナンバー・ワソになった。6日間連続のコーポでのコンサートのチケットもすでに売り切れていた。7万5千人近いファンが、ミシガン南部出身の35歳のロックンローラーの歌を聴くために、ひとり最高1000ドルを支払っている。

シーガーは二階正面席を見つめた。彼の後ろではパックを務めるシルバー・バレット・バンドが『メイン・ストリート』の演奏を続けていた。が、シーガーはそれ以上歌わなかった。じっと遠方の座席を見つめている。しばらくすると、純粋な喜びの微笑が彼の顔中に広がった。

人はだれでも夢を抱いて大人になる。1940、50年代、アメリカの少年たちは野球選手になることに憧れた。しかし、50年代も終りに近づくと、少年たちの夢はロックに変わった。新しい世代はエルヴィス・プレスリーに、ビートルズに、そしてローリング・ストーンズになることだけを夢みたのだ。地元でパンドを作り、学校のタソス・パーティや故郷の町のクラブで演奏してその夢を追い求める者もいた。だが、せいぜいそこまでだった。そこまでなら子供の夢にすぎない。20歳、悪くても22歳までにロック・スターになれなければ、あきらめてまっとうな仕事を探す。いつまでも子供のままでいることは許されない。

が、ボブ.シーガーはやめようとは思わなかった。
状況を冷静に判断すれば、どう見ても彼には成功する見込みはなかった。早く同世代の人間の仲間入りをしろと周囲の状況は語りかけていた。すでに同世代の人間はピーターパン信仰を捨て、現実的な仕事に精を出している。

今ではもう、人気が沸騰しつつある新しいグループの名前さえ知らないことがままあるのを認めざるをえない世代なのだ。20歳のとき、シーガーはロック公演のドサ回りに出ていた。25歳のときもそうだった。30歳になってもそれは続いた。車で旅を続け、年間265回も夜のコンサートをこなす年もあった。それだけやっても、ミシガン、イリノイ、オハイオ州以外の地域ではだれひとり彼のことになど関心を払わなかった。それでも良い年は、6600ドルぐらい懐に入ることもあった。

バーやナイトクラブで演奏した。有名なグループの前座を務めることもあった。気がついてみると自分より若い連中の前座を務めていた。声も、ウィスキーと煙草で年を追うごとにかすれていった。バンドのメンバーも変わった。所属のレコード会社にも彼の将来に関する展望はなにひとつなかった。相変らず巡業が続いた。高校時代の同級生はそれぞれ現実的な世界に身を置いて、それ相応の地位を築いている。そしてその前途は洋々たるものだった。ミシガン州アン・アーバー出身のボブ・シーガーだけが、ロックを歌いつづける、大の大人になっていた。

おそらく、十代のころの彼を知るかつての少年たちは、ロックのファンがすでに自分より20歳も若くなっていることに気づいたときのシーガーの気持に思いをはせるにちがいない。いつになったらこの先もう状況は変わらない、と諦めるのだろうかとも考えるだろう。そして、40歳に手が届きそうになってから、いよいよ最悪の事態を認めざるをえなくなり、仕事を求めて履歴書を書くはめになったときのボブ・シーガーの胸の内を思いやる。ところが、1980年、状況が変わったのだ。ついに---ほとんど魔法のように---シーガーの人気に火がついたのである。レコード購買層はニューヨークの孤独にもロサンゼルスの軽さにくみも倦きたらしい。ボブ・シーガーはそのどちらにも与したことがない。彼は、車の後部座席で過ごした夏の夜や小さな町で味わう孤独、そしておそらくは彼の顔も肌ざわりもとっくの昔に忘れてしまったはずの少女たちがかつて自分に語った言葉を歌う、典型的な中西部のシンガーとしてとどまっていたのだ。

この夏の初めまでに、彼のアルバム『アゲインスト・ザ・ウインド』は、6週間にわたって『ビルボード』誌チャートの第1位の座を独占した。アルバム売上250万枚、総売上にして2000万ドルを超えた。全米ツアのコンサートのチケットも全部売り切れた。彼がミシガンの少年時代の賛歌を口ずさむと、15歳のティーンエイジャーたちが頭上に両手をかざして拍手を送った。夢は実現した。だが、それは遅れでやってきた。遅れてやってきたその夢は、彼が期待していたほど心地よいものだっただろうか。待ったかいはあったのだろうか。シーガーは、世間の冷たさにひと一倍敏感な傷つきやすい男だ。にもかかわらず、15年間、だれひとり自分を顧みてくれなくても、妥協することを拒否してきた。そして今、ついに世の中が彼の声に耳を傾けている。今になって自分に群がってくるファンを見て、彼の脳裏をどんな思いがよぎっているのだろうか。

「伝えるものはあるといつでも思っていた」とシーガーはいう。「ウンザリさせられたことは何度もあった。こっちがどこかそこいらのクラブで演ってるっていうのに、ほかのパンドはどんどんビッグになっていく…・でも、いつも自分に言いきかせてた。週に5日クラブで演れるだけでもたいしたもんじゃないか、と。少なくともそれぐらいはやっていけるという自信はあった。歌はかなりいけるんだ。バーでの演奏ならいつまでだってできる」シーガーと私はふたりだけでコーボの楽屋でビールを飲んでいた。6日間連続のコンサートの3日目の夜が1時間前に終わった。シーガーはいま楽屋で裸足になっている。褐色の髪が肩にかかる。髪には白いものがまじりはじめていた。がっしりした体格の男だ。半袖のシャツから太い腕がむきだしになっている。GMの組立ラインの作業員だといっても十分通じるにちがいない。話すときも、アメリカ中のラジオから聞こえてくるその歌声と同じように、いつもざらざらした声で話す。

中西部で過ごした少年時代を歌った大ヒット『メイン・ストリーム』や『ナイト・ムーヴス』に出てくる不器用な少年のように、彼もまたはにかみ屋のようだ。自分でもそのことは認める。見たこともないような美人に出会うと、今でも言葉につまってまともなことはなにもいえなくなる、という。人のたくさんいる場所で注目の的になると、どうにも居心地が悪くて「逃げだしたくなる」ともいう。だが、その彼も、ミシガンからはけっして逃げたさなかった。ロサンゼルスやニューヨークは自分を呑みこんでしまいそうで怖かった。「人の目をごまかしたり自分を売り込んだりするのは昔からうまくない。俺にできるのは曲を作って歌うことだけだ。でも、歌いつづけてさえいれば、遅かれ早かれ、俺がここにいるってことに気がついてくれると思っていた」彼の夢も、普通の人間の夢と同じように始まった。ラジオから流れてくる歌を聴きながら鏡の前でスター気取りをしてみたのだ。「だが、それができたのは、母親が家にいないときだけだった。だれかほかの人間が家にいると恥ずかしくてダメなんだ」それではなおさらのこと、なぜその夢は彼をつかんで放さなかったのだろうか。同じ夢を抱いたほかの者はとっくの昔にあきらめてしまったのに、なぜ彼だけが最後までそれにしがみついたのだ。

「生まれつき、頑固なんだ。それに、ものすごく孤独を感じていたからな」とシーガーは胸のうちを語った。「たぶん俺はほかの人間より多くの愛情を必要としているんだと思う。人並み以上の野心があるってことじゃない。好かれたい、知られたい、っていう欲求なんだ。俺ももう35歳になる。長いツアのあとは、体中が痛む。体重だってベストよりは5キロも多い。それでも、ステージに立って目の前に観衆を見てその声を聞くと、痛みも苦労もみんな吹っとんじまうんだ。客は『われわれはあなたを受け入れる』っていってる。ファンの声援は俺にはそう聞こえるんだ」

「ずいぶん長いあいだ、まわりの人間は、いつか必ず成功すると俺を説得しつづけた。毎年毎年だれもかれもが『いつか必ず出番がくる。いつかは必ず』と言いつづけた。だが、そんなことをいわれてもよけい虚しくなるだけだった。状況はちっとも変わらなかったからだ。俺に残された最後の手段は、やつらの言い草に耳を貸すのをやめることだった。もうだれも信じられないというところまできていた。出番なんてこないことはわかってた。俺はその思いを飼い慣らして生きてきたんだ。で、今……こうなったってわけさ」

なんの満足感ももたらさない仕事をする人間の運命を、彼は怖れていた。が、理解はできる、という。「きっとある日、観念するんだ。『これが限界だ。もういいかげんに、長く緩やかな人生のうつろいに身を任せたほうが賢明だ』と」。徐々にゆっくりとうつろっていくという亡霊はいつも彼の頭から離れなかった。

ようやく行けるところまで行きついたのに、なにかを生みだすことも伝えることもできなくなっている、そんな自分の姿が目の前にチラついた。「俺は自分に問いかけている。おまえは35歳になった。金も稼いだ。それでもまだロックを続けられるのか、と。凍てつくように寒く暗い夜なんかに、自分にとってかつてはごく自然だったことで生計を立て、いつになっても子供のゲームをやめようとしない大人の姿がよく脳裏をよぎる。いったい、いつどんな形で納得してやめられるのか?」

「会場では若者たちの姿が目に入る。一見、コンサートを楽しんでいるように見えるが、あれはただばかでかいギターが鳴り響くのを聞いて本能的に興奮しているだけなんだ。そんなことぐらいすぐにわかる。ソングライターとして俺は言葉を慎重に選んでいるが、ガキどもはドラムのビートのことしか頭にない。俺がやろうとしていることは、コンサートにきてくれた連中に『自分はひとりじゃない。ここにも同じことを考えている人間がいる』と感じてもらうことだ。だがときどき、ほとんどの連中にはたぶん人の気持なんてわからないだろうし、そんなことは初めからどうでもいいんだろうなっていう気になるんだ」

「いつまでやれるかって?アル・カリーンのようにありたいね。彼はまだ3、4年は野球を続けられることを自分でもよく知ってたのに、自分からやめるといって引退した」
「15歳のガキが45歳になった俺のことを見たいと思うとは考えられない。自分にはあと2年やってみて様子を見書といっている。もっとも32歳のときから同じことを言いつづけてるがね。だがいずれ、もうこれ以上はやらないと決心するときにも、これだけは自分にいえると思う。俺は自分のやってきたことが好きだった。かなりのレヴェルに達したとも思う。そのことで恥ずかしい思いをしたことは一度もなかった、と」


話をしているうちに、夜は更けていった。話はいつか身近な話題に移っていた。彼は、これまでつぎからつぎに曲を書いてきたおかげで、かなり親近感を抱いている人間にさえ手紙が書けなくなったといった。「いつもそのことで負い目を感じていないでもすむと助かるんだがね」そういって彼は笑った。テレビに出たいと思ったことは一度もないという。こちらがどんなメッセージをもっていようともカメラがそれを殺してしまう、と思っているからだ。「トーク番組に出ることになっても、なにを話したらいいのかわからない」と彼はいった。「自分の人生を8分間で説明しろなんていわれてもどうしたらいいかわからない。昔、レノンとマッカートニーが『トゥナイト』に出るってきいたときのことは今でも覚えている。あのときはホントに興奮して、それを見るために寝ないで待ってたんだ……その晩はジョニー・カーソンは初めからいなかった。彼は休みで、ジョー・ガラジョーラが臨時の司会者だった。番組が始まると、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがガラジョーラ相手に無理してジョークを飛ばそうとしてるんだ。見てて悲しくなったよ。俺にはあんな真似はできそうにない。俺が自分らしいと思っているすべてのことが馬鹿らしく思えてくるような気がするんだ」

ぽつぽつ家路につくシルバー・バレット・バンドのメンバーが、部屋に入ってきて挨拶していった。シーガーは手を振ってそれに応えた。夜はかなり更けてきていた。もうアリーナには管理人しか残っていない。だが、シーガーはまだ動こうとしなかった。疲れてはいたが、耳元ではコーポの12000人のファンの歓声がまだこだましていた。楽屋に残って話を続けていれば、その夜を永遠に続かせることができるような気さえしていたのかもしれない。「ミシガンの北のほうに丸太小屋を持ってるんだ」と彼がいった。「ときどき、髪を後ろで結んでパーまで歩いていく。そこで、年寄り連中といっしょにテレビの前に座って、声を張りあげてデトロイト・タイガーズを応援する。みんな俺がだれかなんて知らない。ありがたいよ。前はいつだってそうだったんだ。俺はごく普通のそこいらにいる男にすぎないんだからな」

ようやく、シーガーと私は帰ろうとして立ち上がった。出口に向かうとき、シーガーの手には新しいビールが、私のほうにはもうひとつきいておきたいことがあった。15年かけてようやくビッグになった今、彼の夢はまだ醒めていないのだろうか。これほど長いあいだ執拗に成功を追い求めてきたあとで、彼にとってその婆は想像どおりの心地よいものだったのだろうか。

「そりゃそうさ」とシーガーはいった。「そのとおりだ。最高だよ」
シーガーと私は人気のない廊下をアリーナの出口にむかって歩いた。ふと、彼が立ち止まった。

「いや」と彼はいった。「さっきの答は本心じゃない。じっさいは考えていたほどいいもんじゃなかった。こんなもんだとは思っていなかった。そんな気がするよ」

彼は車のほうへ歩いていった。彼の足音が人のいない駐車場にこだました。ミシガンの少年は、今、ドサ回りを終えて、故郷に帰ってきた。


(『アメリカン・ビート2』ボブ・グリーン:著 井上一馬:訳/河出書房新社:刊)


2011年3月23日水曜日

むなしい恋/ロバート・ジョンソン


Love In Vain/Robert Johnson

そうだ、オレは女を追いかけて、駅に行った。
スーツケースを持って
そうだ、オレは女を追いかけて、駅に行った。
スーツケースを持って
話すのはつらいぜ
話すのはつらいぜ
愛ってものがすっかりムダになることだってある
オレの愛はすっかりムダになったんだ

オレの愛はムダになった。。。いつまでも何度も繰り返す

わら人形に釘を打ち込むように
オレの愛はムダになった。。。いつまでも何度も繰り返す

Love In Vain

ブルースは、呪い。
オレの愛はムダになった。。。呪い続ける。

歌っているのは、ロバート・ジョンソン
ロックの原点がここにある。人呼んで”キング・オブ・デルタ”
シカゴ・ブルースの総本山、嫉妬によって毒殺された男

Robert Johnson The Complete Recordings
これを持っていないブルース・ファンは、聖書を持たないキリスト教信者と言えるような決定的な名盤と言われている。
エリック・クラプトン、ローリング・ストーンズだってひれ伏した。

ロバート・ジョンソンが十字路で悪魔と出会ったという伝説が嘘か、本当か。
ブルースとはなにかを淡々と語る驚きを耳にしたら、その伝説を信じた方が幸福だと思うだろう。

実際には、友人たちがジョークで作り上げた伝説だが、そうは思いたくない。
ロバート・ジョンソンも、さまざまな苦悩を抱えていた男だった。その精神的な痛みを美しい音楽に転嫁させて表現していったのは、18年後に登場したエルヴィス・プレスリーに通じる逸話だ。
そう、そのセクシーな歌声は、エルヴィス登場まで18年もの長い間、待たなければならなかった。

ロバート・ジョンソンの生き方と作品の数々に触れずに通り過ぎるなんて、もったいなくてできないことだ。

Love In Vainが世に出たのは、1937年のことだった。

言葉に出来ないほど悲しくなったら、ブルースもいい。
浄化されるまで、呪い続けるブルースがいい。



Robert Johnson The Complete Recordings

1. 心やさしい女のブルース(テイク1)
2. 心やさしい女のブルース(テイク2)
3. ダスト・マイ・ブルーム\
4. スウィート・ホーム・シカゴ
5. ランブリン・オン・マイ・マインド
6. ランブリン・オン・マイ・マインド
7. いい友だちがいるならば(テイク1)
8. いい友だちがいるならば(テイク2)
9. カモン・イン・マイ・キッチン(テイク1)
10. カモン・イン・マイ・キッチン(テイク2)
11. テラプレイン・ブルース
12. 蓄音機ブルース(テイク1)
13. 蓄音機ブルース(テイク2)
14. 32-20型ブルース
15. ゼイアー・レッド・ホット
16. デッド・シュリンプ・ブルース
17. クロスロード・ブルース(テイク1)
18. クロスロード・ブルース(テイク2)
19. ウォーキン・ブルース
20. ラスト・フェア・ディール・ゴーン・ダウン

ディスク:2
1. プリーチン・ブルース
2. 審判の日を意のままにできたら
3. ストーンズ・イン・マイ・パスウェイ
4. ステディ・ローリン・マン
5. 4時からずっと遅くまで
6. 地獄の猟犬がつきまとう
7. スペードのクイーン(テイク1)
8. スペードのクイーン(テイク2)
9. 麦芽ミルク
10. ドランクン・ハーテッド・マン(テイク1)
11. ドランクン・ハーテッド・マン(テイク2)
12. ミー・アンド・ザ・デビル・ブルース(テイク1)
13. ミー・アンド・ザ・デビル・ブルース(テイク2)
14. ストップ・ブレイキン・ダウン・ブルース(テイク1)
15. ストップ・ブレイキン・ダウン・ブルース(テイク2)
16. トラベリング・リバーサイド・ブルース
17. ハネムーン・ブルース
18. むなしい恋(テイク1)
19. むなしい恋(テイク2)
20. 子牛のブルース(テイク1)
21. 子牛のブルース(テイク2)

<スウィート・ホーム・シカゴ>を聴いたら、耳がイク♪

2011年2月12日土曜日

ダイナマイト/クリフ・リチャード



ダイナマイト/クリフ・リチャード

 イギリスのノッティンガムは、ポール・スミスの生まれ故郷である。映画化されてアカデミー賞を受賞した作品の原作『長距離走者の孤独』『土曜の夜と日曜の朝』を書いたアラン・シリトーが生まれた土地でもある。

1958年のことだ。ノッティンガムでは人種暴動が起こっていた。戦争からの復興を急いでいたイギリスにあって、ノッティンガムは工場労働者の街であり、アフリカ、西インドなど旧植民地から安い労働力を利用していた。そこで有色人種による暴動が起こっていた。

そんな時、10年前にインドから移民してきたクリフ・リチャードがスターダムに駆け上った。祖先はイギリス人だが、父はビルマ生まれ、母はインド生まれの家系に育ちクリフ・リチャード自身はインド生まれだった。

アメリカではエルヴィス・プレスリーとロックンロールが事件になっていた。16歳の時、クリフ・リチャードは停車中の車内からエルヴィス・プレスリーの<ハート・ブレイク・ホテル>が聞こえてきたことに触発され自らスキッフル・バンドを結成する。17歳になると、ロンドンのソーホー地区にあるCafe Bar "Two I'S"に出演し、エルヴィスばりのパフォーマンスで注目されるようになる。

58年8月には、EMIと契約。コロンビアレコードからデビューする。クリフ・リチャードは本格的にプロの道を歩みだした。59年にはアルバム「クリフ」をリリース。アメリカ、日本でもヒットした<リヴィング・ドール>のスマッシュ・ヒットを飛ばした。

56年から遅れること3年、59年にはイギリスでも本格的なロックンロール・ブームが巻き起こった。クリフ・リチャードを筆頭に多くのシンガーが参加した。そのバックバンドに後のビートルズもいた。



クリフのバックにはザ・シャドウズがいた。<アパッチ>のヒットは有名だ。シャドウズはアメリカのベンチャーズの向こうを張るバンドで、やがて日本で起こったグループサウンズの礎として<ウオーク・ドント・ラン>のベンチャーズ、<太陽の彼方>のアストロノウツと共に人気を得た。ビートルズ登場前夜、ビートルズがブレイクする下地を作ったと言える。

クリフ・リチャードとザ・シャドウズが組んだ<ダイナマイトDynamite>は、クリフには珍しいストレートなロックナンバーだ。地を這うようなサウンドが駆け巡り、クリフが続いてやってきて、急いで火をつける。ドカ~ン☆☆☆シンプルで楽しいが、鬼平に見つかったら捕まりそうな危ないナンバーだ。B面には、レイ・チャールズの名作<ホワッド・アイ・セイ>を仕込んだシングルは1965年に日本でも大ヒットした。実際に録音されたのは、1959年で1960年には日本でもコロムビアレコードからリリースされている。つまり日本ではレコード会社を変えての再販だったわけだ。

クリフ・リチャードを語るとき、忘れてはいけないのが<ヤングワン>だろう。クリフ・リチャード主演映画「ヤングワン」のテーマソングでもあり、その爽やかなイメージが日本人に好まれた。本家エルヴィス・プレスリーを凌ぐような人気があったのは、日本人がメロディーラインの美しい軽めのポップスを好む傾向にあったことが原因している。しかしアメリカではイギリスほどの人気を得ることはなかった。

日本でのクリフ・リチャードのヒット曲は多い。<レッツ・メイク・ア・メモリー><バチェラー・ボーイ><オン・ザ・ビーチ><ダイナマイト><コングラッチュレーションズ>など出せば堅実にヒット、初期のビートルズ全盛時代に人気があった。