2011年6月11日土曜日

オールドタイム・ロックンロール / ボブ・シーガー


アゲインスト・ザ・ウインド / ボブ・シーガー

ボブ・シーガーをご存知か?

俺は古いロックンロールが好きなのさ
俺の魂を癒してくれる
俺を過去の遺物と呼ぼうが
時代遅れと呼ぼうが
下り坂と呼ぼうが
俺の魂を癒す古いロックンロールが好きなのさ

 (オールドタイム・ロックンロール/ボブ・シーガー)


プレスリーもビートルズも、もういない80年初夏。
ボブ・シーガーは<アゲインスト・ザ・ウインド>という曲をビッグヒットさせた。めまいがするほど美しいロックンロールだ。
それは『奔馬の如く』の邦題のアルバムタイトルでリリースされた。




デトロイトの巨人と呼ばれた男は、日本ではさほど知られていない。しかしストリートロックの彼の音楽は、ブルース・スプリングスティーンと共に心をわじづかみにして離さない。なかでも<アゲインスト・ザ・ウインド>は身震いするほど美しい。

”風に向かって、俺たちは風に向かって走っている。俺たちは若くて強い。俺たちは風に向かって走っている” そうだ、風に向かって進むことは、いつだって楽しい。

プロレスラーのような風貌、それにしても<アゲインスト・ザ・ウインド>・・・そのタイトル通りに”今でもまだ風に向かって走っているぜ” 風景が沁みます。ピアノの音、印象的なリフレインがストレートな男の心情と一体になって疾走、心を揺らす曲だ。イーグルスのメンバーがバックコーラスに参加していた。

全米約150紙の新聞に掲載されているコラムを書く、ボブ・グリーンがボブ・シーガーに触れていること。
その記事は『エスクワァイア』誌に書いたコラムを集めた書籍『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』に掲載されたものだが、それがエルヴィスに関するコラム2本と連なって書かれていること。そしてその記事が、連なっているせいなのか、妙にエルヴィスの匂いを含んでいるからだ。

因に『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』は音楽についてのコラムを主としたものでないが、この本にはエルヴィスの名が出てくるものが全部で4つある。今回はボブ・シーガーについてのものと、『エルヴィスが笑っている』をピックアップ。次回は『エルヴィスが死んだ日』ともう一本をピックアップしたい。



ロックがすべて

デトロイト・コーポ・アリーナ、音のこだまする広大な空間。ボブ・シーガーがステージ前方に進みでた。ギターを手にした彼は、『メイン・ストリート』の出だしのフレーズを歌いはじめた。「真夜中の街かどに立っていたのを覚えている/勇気をふるい起こそうとして…・:」

声が遠くまで届かない。土曜日の午後遅い時間、音響装置のテスト中だ。マイクロフォンの調子が悪い。あと3時間もすれば、アリーナは2万人以上のファンで埋めつくされる。だが今はまだホールの入口には鍵がかけられ、シーガーの声を聴く聴衆はひとりもいない。

ステージから数メートルのところまでしか声が届かないので、さらに二、三小節歌ったところで彼は歌うのをやめた。そして、何千席もの空席を見わたした。今夜、ついに彼は故郷に錦を飾ろうとしていた。中西部の小さな世界の外で名を成そうと15年間下積み生活を送ったあと、シーガーのアルバムはアメリカで売上ナンバー・ワソになった。6日間連続のコーポでのコンサートのチケットもすでに売り切れていた。7万5千人近いファンが、ミシガン南部出身の35歳のロックンローラーの歌を聴くために、ひとり最高1000ドルを支払っている。

シーガーは二階正面席を見つめた。彼の後ろではパックを務めるシルバー・バレット・バンドが『メイン・ストリート』の演奏を続けていた。が、シーガーはそれ以上歌わなかった。じっと遠方の座席を見つめている。しばらくすると、純粋な喜びの微笑が彼の顔中に広がった。

人はだれでも夢を抱いて大人になる。1940、50年代、アメリカの少年たちは野球選手になることに憧れた。しかし、50年代も終りに近づくと、少年たちの夢はロックに変わった。新しい世代はエルヴィス・プレスリーに、ビートルズに、そしてローリング・ストーンズになることだけを夢みたのだ。地元でパンドを作り、学校のタソス・パーティや故郷の町のクラブで演奏してその夢を追い求める者もいた。だが、せいぜいそこまでだった。そこまでなら子供の夢にすぎない。20歳、悪くても22歳までにロック・スターになれなければ、あきらめてまっとうな仕事を探す。いつまでも子供のままでいることは許されない。

が、ボブ.シーガーはやめようとは思わなかった。
状況を冷静に判断すれば、どう見ても彼には成功する見込みはなかった。早く同世代の人間の仲間入りをしろと周囲の状況は語りかけていた。すでに同世代の人間はピーターパン信仰を捨て、現実的な仕事に精を出している。

今ではもう、人気が沸騰しつつある新しいグループの名前さえ知らないことがままあるのを認めざるをえない世代なのだ。20歳のとき、シーガーはロック公演のドサ回りに出ていた。25歳のときもそうだった。30歳になってもそれは続いた。車で旅を続け、年間265回も夜のコンサートをこなす年もあった。それだけやっても、ミシガン、イリノイ、オハイオ州以外の地域ではだれひとり彼のことになど関心を払わなかった。それでも良い年は、6600ドルぐらい懐に入ることもあった。

バーやナイトクラブで演奏した。有名なグループの前座を務めることもあった。気がついてみると自分より若い連中の前座を務めていた。声も、ウィスキーと煙草で年を追うごとにかすれていった。バンドのメンバーも変わった。所属のレコード会社にも彼の将来に関する展望はなにひとつなかった。相変らず巡業が続いた。高校時代の同級生はそれぞれ現実的な世界に身を置いて、それ相応の地位を築いている。そしてその前途は洋々たるものだった。ミシガン州アン・アーバー出身のボブ・シーガーだけが、ロックを歌いつづける、大の大人になっていた。

おそらく、十代のころの彼を知るかつての少年たちは、ロックのファンがすでに自分より20歳も若くなっていることに気づいたときのシーガーの気持に思いをはせるにちがいない。いつになったらこの先もう状況は変わらない、と諦めるのだろうかとも考えるだろう。そして、40歳に手が届きそうになってから、いよいよ最悪の事態を認めざるをえなくなり、仕事を求めて履歴書を書くはめになったときのボブ・シーガーの胸の内を思いやる。ところが、1980年、状況が変わったのだ。ついに---ほとんど魔法のように---シーガーの人気に火がついたのである。レコード購買層はニューヨークの孤独にもロサンゼルスの軽さにくみも倦きたらしい。ボブ・シーガーはそのどちらにも与したことがない。彼は、車の後部座席で過ごした夏の夜や小さな町で味わう孤独、そしておそらくは彼の顔も肌ざわりもとっくの昔に忘れてしまったはずの少女たちがかつて自分に語った言葉を歌う、典型的な中西部のシンガーとしてとどまっていたのだ。

この夏の初めまでに、彼のアルバム『アゲインスト・ザ・ウインド』は、6週間にわたって『ビルボード』誌チャートの第1位の座を独占した。アルバム売上250万枚、総売上にして2000万ドルを超えた。全米ツアのコンサートのチケットも全部売り切れた。彼がミシガンの少年時代の賛歌を口ずさむと、15歳のティーンエイジャーたちが頭上に両手をかざして拍手を送った。夢は実現した。だが、それは遅れでやってきた。遅れてやってきたその夢は、彼が期待していたほど心地よいものだっただろうか。待ったかいはあったのだろうか。シーガーは、世間の冷たさにひと一倍敏感な傷つきやすい男だ。にもかかわらず、15年間、だれひとり自分を顧みてくれなくても、妥協することを拒否してきた。そして今、ついに世の中が彼の声に耳を傾けている。今になって自分に群がってくるファンを見て、彼の脳裏をどんな思いがよぎっているのだろうか。

「伝えるものはあるといつでも思っていた」とシーガーはいう。「ウンザリさせられたことは何度もあった。こっちがどこかそこいらのクラブで演ってるっていうのに、ほかのパンドはどんどんビッグになっていく…・でも、いつも自分に言いきかせてた。週に5日クラブで演れるだけでもたいしたもんじゃないか、と。少なくともそれぐらいはやっていけるという自信はあった。歌はかなりいけるんだ。バーでの演奏ならいつまでだってできる」シーガーと私はふたりだけでコーボの楽屋でビールを飲んでいた。6日間連続のコンサートの3日目の夜が1時間前に終わった。シーガーはいま楽屋で裸足になっている。褐色の髪が肩にかかる。髪には白いものがまじりはじめていた。がっしりした体格の男だ。半袖のシャツから太い腕がむきだしになっている。GMの組立ラインの作業員だといっても十分通じるにちがいない。話すときも、アメリカ中のラジオから聞こえてくるその歌声と同じように、いつもざらざらした声で話す。

中西部で過ごした少年時代を歌った大ヒット『メイン・ストリーム』や『ナイト・ムーヴス』に出てくる不器用な少年のように、彼もまたはにかみ屋のようだ。自分でもそのことは認める。見たこともないような美人に出会うと、今でも言葉につまってまともなことはなにもいえなくなる、という。人のたくさんいる場所で注目の的になると、どうにも居心地が悪くて「逃げだしたくなる」ともいう。だが、その彼も、ミシガンからはけっして逃げたさなかった。ロサンゼルスやニューヨークは自分を呑みこんでしまいそうで怖かった。「人の目をごまかしたり自分を売り込んだりするのは昔からうまくない。俺にできるのは曲を作って歌うことだけだ。でも、歌いつづけてさえいれば、遅かれ早かれ、俺がここにいるってことに気がついてくれると思っていた」彼の夢も、普通の人間の夢と同じように始まった。ラジオから流れてくる歌を聴きながら鏡の前でスター気取りをしてみたのだ。「だが、それができたのは、母親が家にいないときだけだった。だれかほかの人間が家にいると恥ずかしくてダメなんだ」それではなおさらのこと、なぜその夢は彼をつかんで放さなかったのだろうか。同じ夢を抱いたほかの者はとっくの昔にあきらめてしまったのに、なぜ彼だけが最後までそれにしがみついたのだ。

「生まれつき、頑固なんだ。それに、ものすごく孤独を感じていたからな」とシーガーは胸のうちを語った。「たぶん俺はほかの人間より多くの愛情を必要としているんだと思う。人並み以上の野心があるってことじゃない。好かれたい、知られたい、っていう欲求なんだ。俺ももう35歳になる。長いツアのあとは、体中が痛む。体重だってベストよりは5キロも多い。それでも、ステージに立って目の前に観衆を見てその声を聞くと、痛みも苦労もみんな吹っとんじまうんだ。客は『われわれはあなたを受け入れる』っていってる。ファンの声援は俺にはそう聞こえるんだ」

「ずいぶん長いあいだ、まわりの人間は、いつか必ず成功すると俺を説得しつづけた。毎年毎年だれもかれもが『いつか必ず出番がくる。いつかは必ず』と言いつづけた。だが、そんなことをいわれてもよけい虚しくなるだけだった。状況はちっとも変わらなかったからだ。俺に残された最後の手段は、やつらの言い草に耳を貸すのをやめることだった。もうだれも信じられないというところまできていた。出番なんてこないことはわかってた。俺はその思いを飼い慣らして生きてきたんだ。で、今……こうなったってわけさ」

なんの満足感ももたらさない仕事をする人間の運命を、彼は怖れていた。が、理解はできる、という。「きっとある日、観念するんだ。『これが限界だ。もういいかげんに、長く緩やかな人生のうつろいに身を任せたほうが賢明だ』と」。徐々にゆっくりとうつろっていくという亡霊はいつも彼の頭から離れなかった。

ようやく行けるところまで行きついたのに、なにかを生みだすことも伝えることもできなくなっている、そんな自分の姿が目の前にチラついた。「俺は自分に問いかけている。おまえは35歳になった。金も稼いだ。それでもまだロックを続けられるのか、と。凍てつくように寒く暗い夜なんかに、自分にとってかつてはごく自然だったことで生計を立て、いつになっても子供のゲームをやめようとしない大人の姿がよく脳裏をよぎる。いったい、いつどんな形で納得してやめられるのか?」

「会場では若者たちの姿が目に入る。一見、コンサートを楽しんでいるように見えるが、あれはただばかでかいギターが鳴り響くのを聞いて本能的に興奮しているだけなんだ。そんなことぐらいすぐにわかる。ソングライターとして俺は言葉を慎重に選んでいるが、ガキどもはドラムのビートのことしか頭にない。俺がやろうとしていることは、コンサートにきてくれた連中に『自分はひとりじゃない。ここにも同じことを考えている人間がいる』と感じてもらうことだ。だがときどき、ほとんどの連中にはたぶん人の気持なんてわからないだろうし、そんなことは初めからどうでもいいんだろうなっていう気になるんだ」

「いつまでやれるかって?アル・カリーンのようにありたいね。彼はまだ3、4年は野球を続けられることを自分でもよく知ってたのに、自分からやめるといって引退した」
「15歳のガキが45歳になった俺のことを見たいと思うとは考えられない。自分にはあと2年やってみて様子を見書といっている。もっとも32歳のときから同じことを言いつづけてるがね。だがいずれ、もうこれ以上はやらないと決心するときにも、これだけは自分にいえると思う。俺は自分のやってきたことが好きだった。かなりのレヴェルに達したとも思う。そのことで恥ずかしい思いをしたことは一度もなかった、と」


話をしているうちに、夜は更けていった。話はいつか身近な話題に移っていた。彼は、これまでつぎからつぎに曲を書いてきたおかげで、かなり親近感を抱いている人間にさえ手紙が書けなくなったといった。「いつもそのことで負い目を感じていないでもすむと助かるんだがね」そういって彼は笑った。テレビに出たいと思ったことは一度もないという。こちらがどんなメッセージをもっていようともカメラがそれを殺してしまう、と思っているからだ。「トーク番組に出ることになっても、なにを話したらいいのかわからない」と彼はいった。「自分の人生を8分間で説明しろなんていわれてもどうしたらいいかわからない。昔、レノンとマッカートニーが『トゥナイト』に出るってきいたときのことは今でも覚えている。あのときはホントに興奮して、それを見るために寝ないで待ってたんだ……その晩はジョニー・カーソンは初めからいなかった。彼は休みで、ジョー・ガラジョーラが臨時の司会者だった。番組が始まると、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがガラジョーラ相手に無理してジョークを飛ばそうとしてるんだ。見てて悲しくなったよ。俺にはあんな真似はできそうにない。俺が自分らしいと思っているすべてのことが馬鹿らしく思えてくるような気がするんだ」

ぽつぽつ家路につくシルバー・バレット・バンドのメンバーが、部屋に入ってきて挨拶していった。シーガーは手を振ってそれに応えた。夜はかなり更けてきていた。もうアリーナには管理人しか残っていない。だが、シーガーはまだ動こうとしなかった。疲れてはいたが、耳元ではコーポの12000人のファンの歓声がまだこだましていた。楽屋に残って話を続けていれば、その夜を永遠に続かせることができるような気さえしていたのかもしれない。「ミシガンの北のほうに丸太小屋を持ってるんだ」と彼がいった。「ときどき、髪を後ろで結んでパーまで歩いていく。そこで、年寄り連中といっしょにテレビの前に座って、声を張りあげてデトロイト・タイガーズを応援する。みんな俺がだれかなんて知らない。ありがたいよ。前はいつだってそうだったんだ。俺はごく普通のそこいらにいる男にすぎないんだからな」

ようやく、シーガーと私は帰ろうとして立ち上がった。出口に向かうとき、シーガーの手には新しいビールが、私のほうにはもうひとつきいておきたいことがあった。15年かけてようやくビッグになった今、彼の夢はまだ醒めていないのだろうか。これほど長いあいだ執拗に成功を追い求めてきたあとで、彼にとってその婆は想像どおりの心地よいものだったのだろうか。

「そりゃそうさ」とシーガーはいった。「そのとおりだ。最高だよ」
シーガーと私は人気のない廊下をアリーナの出口にむかって歩いた。ふと、彼が立ち止まった。

「いや」と彼はいった。「さっきの答は本心じゃない。じっさいは考えていたほどいいもんじゃなかった。こんなもんだとは思っていなかった。そんな気がするよ」

彼は車のほうへ歩いていった。彼の足音が人のいない駐車場にこだました。ミシガンの少年は、今、ドサ回りを終えて、故郷に帰ってきた。


(『アメリカン・ビート2』ボブ・グリーン:著 井上一馬:訳/河出書房新社:刊)


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