2010年11月23日火曜日
ビー・バップ・ア・ルーラ/ジーン・ヴィンセント
ビー・バップ・ア・ルーラ/ジーン・ヴィンセント
<ビー・バップ・ア・ルーラ>を聴いたとき、エルヴィス・プレスリーはどう思ったのだろうか?
初期のエルヴィスが得意としていたヒーカップ唱法が、なんともカッコよすぎて、衝撃的だ。生粋の白人ロックンロールナンバーとしては最高のひとつだ。そしてB面に<ウーマン・ラヴ>を仕込んだシングル盤の雰囲気もたまらなくクールだ。
どういう経緯で手に入れたのか記憶にないのだが、ボクはこのキャピトルからリリースされたシングル盤を持てたことがたまらなくうれしい。もちろんいまでも持っていて、それは宝物のひとつだ。
ジーン・ヴィンセント (Gene Vincent、1935年2月11日-1971年10月12日)は1950年代後半にアメリカ文化を変えたロカビリーを代表するひとりであり、ジーン・ヴィンセント & ヒズ・ブルー・キャップス のヴォーカリストでもある。
ブルー・キャップスからは、もうひとり、ギタリスト、クリフ・ギャラップのギャロッピング奏法が歴史にその名を刻んでいる。親指でベースラインを、その他の指でメロディラインを弾くギター奏法で、弾いている指が、馬が駆け足のように動く。<ビー・バップ・ア・ルーラ>の音源はいくつかのテイクが現在も流通しているが、ギターサウンドが強調されたものもあり、アガらずにはいられない。
エルヴィス・プレスリー、バディ・ホリーとともにジョン・レノン、ポール、ポール・マッカートニー に与えた影響の大きさは知られているが、ビートルズに限らずすべてのロックンロールシーンに与えた影響は大きい。
Gene Vincent(ジーン・ビンセント)は1935年2月11日にアメリカ・ヴァージニア州で誕生。
本名ヴィンセント・ユージン・クラドック(Vincent Eugene Craddock)。生家はとても貧しく、多くのロック・ミュージシャンf同様、苦労して成長している。
1947年、 いまのように簡単にレコードが買えない時代、エルヴィスと同じように音楽の入り口は教会の賛美歌だった。
1950年、サウス・ノーフォーク・ハイスクールへ進学するも、中退して海兵隊に入隊。しかし1953年、入隊中にバイク事故を起こし、左足が曲がらなくなる悲劇に見舞われる。負傷した左足の障害は生涯続いた。
除隊した ジーン・ビンセント はノーフォークのローカルラジオ局と契約。ディスクジョッキー、ビル・(シェリフ・テックス)・デイビスに誘われカントリー・ショウに出演。エルヴィス・プレスリーのものまねをやってのけ喝采を浴びる。
これを機にビル・デイビスがマネージャーになり、地元のミュージシャンを集めバックバンドのブルー・キャップス(Blue Caps)を結成。
ここから、ビルとジーンによりロックンロールの名曲のひとつ"Be Bop A-Lula"が誕生する。
彼らはデモ・テープをキャピトルレコードに送ります。しかし審査の結果は反対が優勢だった。しかし幹部のひとりケン・ネルソンのジーンへの強い支持によって、どんでん返しの結果になり契約が成立する。
その年に、デビュー・シングル"Be Bop A-Lula"を発表、全米9位にチャート・インする大ヒットになる。 ジーン・ビンセントの甘いルックス、セクシーさを前面に押し出したスタイルは、エルヴィスにもっとも近く、しかしオリジナリティのあるエキセントリックなスタイルはいま聴いても衝撃的だ。
ジーン・ビンセントはロックンロールブームの中、エルヴィスとモンローのフォロワーを全員集合させたような貴重な映画『女はそれを我慢できない』さらに "Hot Rod Gang にも出演する。
"Be Bop A-Lula" に続いて、シングル"Race With The Davil"(96位)、"Bluejean Bop"(49位)、 1957年、"Lotta lovin'"(14位)、"Dance To The Bop"(43位)と発表するが、 "Be Bop A-Lula" を超えるヒットは出なかった。
やがて相次ぐロックンロールスターの一線からの撤退を余儀なくされたこととともにロックンロールが下火に向かったこともあり、アメリカ国内では不発の連発に終わる。
活動の場をヨーロッパに移すようになるが、なかでもロックンロールブームが続いていたイギリスが活動の中心に移る。これがビートルズ誕生に大きな影響を与えている。
しかし、そのイギリスをツアー中、エディ・コクランと一緒に乗ったタクシーが街路樹に衝突。エディ・コクランは翌日死亡。 ヴィンセントは助かったものの、以後車椅子生活を余儀なくされ一線から退くことになる。
60年代になって、車いすでステージをこなし、イギリスのファンから喝采を浴びる。
1971年10月12日、キャピトルレコードのあるロサンゼルスのインターバリー・コミュニティー・ホスピタルで、胃潰瘍で死去。36歳の若さだった。ロサンゼルスのEternal Valley Memorial Park に埋葬された。
”Be Bop A-Lula"一曲に人生が眩しく煌めいた、まさにビーバップ人生だったようだ。
そのエキセントリックなスタイルは、いわゆる「一発屋」の領域を大きく超えた存在であり、セックス・ピストルズ、クラッシュに代表される70年代のイギリス・パンクの原型ともいえる。
1996年、ふさわしい評価を受けて「ロックの殿堂」入りした。
2010年11月3日水曜日
ロンサム・タウン / リック・ネルソン
ロンサム・タウン/LONESOME TOWN
ポール・マッカートニーが歌う「ロンサム・タウン」が絶品だ。日本語で歌っているような錯覚をしてしまうのは、メロディーラインの美しさのせいか。ポールの思い入れが切なく響く。
こういう歌を聴くと、山ほどあるつまらない曲を聴いている時間がもったいない。「ロンサム・タウン」はもちろん、Rick Nelson リック・ネルソン(リッキー・ネルソン)の曲だが、ポールが歌うには特別な理由がある。
「亡くなった妻リンダと知り合うずっと昔、ふたりとも、この曲が好きで、大西洋を挟んだ違う場所で、同じ時期に聴いていたんだ」
リンダがこの歌が特別好きだったことの思い出しながら、ポールは心こめて歌っています。その思い入れが、理由を知らない人を揺り動かす力になっています。
時間が過ぎても、いい歌には、それだけの物語を生み出す力があるということでもあります。
リッキー・ネルソンは、1940年米国ニュージャージー州生まれ。芸能一家に生まれ、子供時代からTVのファミリー・ドラマに出演。
1956年のエルヴィス登場事件の1年遅れて1957年、ロックンロールブームの真っ只にポップス最前線登場します。気品のあるマスク、過激なロックンロールをマイルドにした親に安心して聴けるサウンド、日本人好みの”アメリカンポップス”でお茶の間に登場。人気を博します。
ビルボードNo.1になった<トラブリン・マン>や<ハロー・メリー・ルウ><ヤング・ワールド><プア・リトル・フール>などがヒットする一方、映画にも出演、ジョン;ウェイン、ディーン・マーティンと共演した傑作ウエスタン「リオ・ブラボー」でのディーン・マーティンとのかけ合いも忘れられない。演技の動作がエルヴィス・プレスリーそっくりなのもご愛嬌。
バンドには、ステージ復活から最後までエルヴィスと行動を共にしたリードギターの名手ジェームス・バートンも参加していました。
1962年からリック・ネルソンに名前を変更。1963年にはデッカレコードと20年の長期の契約を交わします。しかしこれといったヒットが出なくなります。ポピューラーミュージックの急激な変化に対応に腐心しますが、先見性のあるサウンドを追及、その中には後にイーグルスのメンバーになるランディ・マイズナーもバンドに参加します。
1985年12月31日、飛行機事故で突然この世を去ります。爽やかな風貌を焼き付けて切なさを置き去りにして。。。
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