2010年5月23日日曜日

トゥッティ・フルッティ/リトル・リチャード


トゥッティ・フルッティ/ Tutti Frutti

 ”ワッバップ・ルッマップ・ラッバン・バン”

 アメリカ人でも?????だ。意味を知りたければ腰を使え。そういう歌だ。それしかない歌だ。東にロック、西にもロック、彼女は一番のお気に入り ♪

 ”ワッバップ・ルッマップ・ラッバン・バン”の主は心で泣いていた。

 その人の名はリトル・リチャード。R&Bシンガーとしてのキャリアが3年経過していたが、ヒットに恵まれなかった。スペシャルティのスタジオでレコードセッションをやっていたときのことだった。テイクの間の時間、リトル・リチャードはバンドの面々とふざけあっていた。

Tutti Frutti、尻を振って!、セックスを歌にしたバカ騒ぎだ。バカ騒ぎではあるが、それは自身の無防備な解放だ。自分が自分の戻った瞬間だ。もちろんプロデューサーのバンプス・ブラックウェルにもこんな歌を作るつもりもなかった。それにしても楽しすぎた。エルヴィス・プレスリーが偶然カントリーをロックンロールにしてしまったのと同じシチュエーションだ。

 偶然、レコーディングされたわいせつな<トゥッティ・フルッティ>は、ソングライターを雇って書き換えが行われた。そしてラジオ放送が可能なレベルに歌詞の変更がすんだ後、<トゥッティ・フルッティ>を再録音にかかった。リトル・リチャードはテイクを重ねるたびに曲の時間を測定し秒単位で短縮を重ねに重ねた。弾丸のようなR&Bを発射するためにスピードアップを図った。そしてリトル・リチャードのスタイルと音楽は世に出た。



 <トゥッティ・フルッティ>はリトル・リチャードの初めてのヒット曲になった。しかしその本当の精神がそのまま受け入れられたわけではない。しかもパット・ブーンが現れて、その人気を横取りしていった。リトル・リチャードは泣いていた。

ロックンロールと呼ぶにはまだまだ曖昧な時代だ。そのスピーディな展開と激しいビート、個性的な声と歌唱力で<トゥッティ・フルッティ>(1955.10月、2位)<リップ・イッツ・アップ(陽気に行こうぜ)>(1956.8/1位)、<レディ・テディ>(1956.8/8位)がリトル・リチャードによってR&Bチャート・インしている・・・・<トゥッティ・フルッティ>から18ヶ月間、アウトサイダーとして人気者を続けた後、リトル・リチャードは1958年に傑作<ルシール>を残してロックンロールを捨てる。

「ある時世界が燃え上がり空が熱によって溶けてなくなった夢を見た。しばらくしてフィリピン行きの飛行機に乗っていると突如火を噴きはじめた。私が神に祈ると火が消えた」と語った。

有名な言葉と共に1万ドルの宝石を海に沈め、アラバマの神学校で伝道師を志して信仰の道に入った。

Wop-bop-a-loom-bop-a-lop-bam-boom
Tutti frutti,ah rutti
Tutti frutti,ah rutti
Tutti frutti, ah rutti
Tutti frutti, ah rutti
Tutti frutti,ah rutti
Wop-bop-a-loom-bop-a-lop-bam-boom

・・・・リトル・リチャードが再びロック・シーンに戻ってきたのは、1965年だった。7年が過ぎていたが、彼がふりまいたロックンロールの魔法の粉はイギリスとアメリカをまたいだ虹になっていた。



2010年5月11日火曜日

ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン / ジェリー・リー・ルイス


ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン

<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>は、ロックンロールの歴史に燦然と輝く金字塔、ただの金字塔ではない。いつまでも燃え続ける金字塔だ。

ジェリー・リー・ルイスは「ザ・キラー」(The Killer)と呼ばれていた。

ジェリー・リー・ルイス(Jerry Lee Lewis)は、1935年9月29日、アメリカ合衆国ルイジアナ州フェリディで誕生した。
1957年、<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン><火の玉ロック>のヒットで一躍スターダムにのし上がった。ロックンロール黄金時代の旗手のひとりだ。

立ったままピアノを弾くというより叩きながら歌う、さらにピアノに油と火を放って燃やす、破壊的でワイルドなスタイルとパフォーマンスが衝撃的だった。

 ジェリー・リー・ルイスはエルヴィス・プレスリーがそのキャリアをスタートさせたテネシー州メンフィスのサン・レコードからデビューした。エルヴィスから遅れること2年、1956年のことだった。

 サン・レコードのオーナー、サム・フィリップスとジェリー・リー・ルイスの出会いは、1956年9月。すでにRCAに移籍したエルヴィス・プレスリーが世界を席巻していた。ジェリー・リー・ルイスはメンフィスに行き、オーディションを受ける。サム・フィリップスはいなかったが、代わってエンジニアのジャック・クレメントが演奏を聴いた。もう少し学べば更に良くなるとアドバイスする。

その年の11月14日、”Jerry Lee Lewis And His Pumping Piano”のバンド名で最初のレコード<クレイジーアームス>をリリースした。さらに1957年3月1日、ワン・テイクで録音した<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>を2枚目のシングルとしてリリース。TV「スティーヴ・アレン・ショー」で初めてそのスタイルが全米に届き、全米3位の大ヒットとなった。3枚目のシングルが<火の玉ロック>だ。



<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>は、危険なものを安全にして見せたという点で最高のものだ。決して安全ではなかったが、人々はそう感じた。

「歌っていると勝手に身体が動くんだ」とエルヴィス・プレスリは言った。それは「危害を加えないし、気が狂っているわけでもない」という意味だ。

今度はジェリー・リー・ルイスが、ピアノを壊し、燃やしながら、「演技じゃない、音楽のせいだ」と言ったのだ。誰が信じるだろう?信じたとしたら、信じる側が危険な存在だと思われかねない。

こうして彼らは権威を壊し、その核心に思想より感覚で切り込んでいった。危険人物でなかったが、危険であることは明らかだった。プラトニックな不倫のようだ。さっきまでなにもなく酒を飲んでいた男の横を女が通り抜けた。その瞬間、磁気が心身を貫き、男は別人になった。その女は生涯のひとになった。そんな音楽がある。<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>は数少ない燃え続ける言霊だ。意味なんかない。意味がなくてもかけがえのないものがある。意味は自分にある。

「オレが一番とは思わないさ。でも最高なんだ。」(ジェリー・リー・ルイス)
その通りだ。<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>を聴けば誰だって、そう思う。



2010年5月4日火曜日

メンフィス・テネシー/チャック・ベリー


メンフィス・テネシー/チャック・ベリー

はっきりしていることがある。<メンフィス・テネシー>は人間の歌だということだ。

<メンフィス・テネシー>は、1958年にリリースされた。チャック・ベリーは離婚していなかったし、メンフィスに住んでもいなかったが、<メンフィス・テネシー>はマリーという娘への感情をドラマティックに語っていた。

チャック・ベリーは 1926年10月18日、ミズリー州セントルイスで誕生した。

ビートルズが60年代に<ロール・オーヴァー・ベートーベン><ロックン・ロール・ミュージック>をカヴァーしたことで広く認知された。少なくともボクはそれで知った。

1986年にロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りした理由でも分かるように、チャック・ベリーは、もっとも早く来たロックンローラーだった。そしてもっとも遅れて来たロックンローラーだった。甘美な声と「メンフィス・ビート」と呼ばれるスライドギターが特長的だ。



無名だったエルヴィス・プレスリーがドザ回りをしていたとき、チャックベリーの<メブリーン>を歌っている。そして1956年にエルヴィスによってロックンロールの扉が開かれたが、1958年、エルヴィスは軍隊に召集。リトル・リチャードは引退した。1959年にはチャック・ベリーが姿を消し、バディ・ホリーの飛行機事故死(1959年)、エディ・コクラン(1960年)交通事故死とジーン・ヴィンセント(1960年)交通事故と不幸が相次いだ。

1959年、チャック・ベリーは刑務所に入っていた。スキャンダラスな事件で収監されていた。

こうして先駆者たちが一線から消えた後、60年代になると、ロックンロールを教わったこどもたちが一斉攻撃をかけはじめた。ビーチボーイズが、チャック・ベリーのイントロをそのまま使って<FUN FUN FUN>でやって来た。イギリスではビートルズが<ロール・オーヴァー・ベートーベン>をアルバムに入れてメジャーデビューした。

<FUN FUN FUN>も<ロール・オーヴァー・ベートーベン>もカッコよかった。ロックンロール第2世代のブームに乗って・・・チャック・ベリーはダック・ウォークで戻って来た。

1964年に<メンフィス・テネシー>は<Little Marie>に改題して再販、大ヒットした。みんながかってのロックンロール・ヒーローのダック・ウォークを真似した。

65年には、ジョニー・リバースが<メンフィス>のタイトルでヒットさせ日本でもチャートインした。


(エルヴィスプレスリーがカバーしたメンフィステネシー)

マリーという娘と父の別離を歌っていたが、チャック・ベリーはメンフィスに住んだことはなかった。ロックンローラーにしてメンフィス・テネシーをこよなく愛する住人、エルヴィス・プレスリーがこの切ない物語を歌わないわけはないと思われていた。エルヴィスは1963年5月27日にレコーディングしているが、64年1月12日に再度レコーディングした。そのバージョンが1965年7月にアルバムに収録されてリリースされた。

マリーへの伝言を受け取ったおじさんは壁に書きなぐっている。キュンキュンと胸の痛みがギターから聴こえてくる。



2010年5月2日日曜日

イッツ・ソー・イージー
/バディ・ホリー



イッツ・ソー・イージー

人間は絶対に他者を変えることはできない。それでも、影響を与えることはできる。

影響力が結果的に人を変える、その素晴らしい事例がロックンロールの軌跡にある。その代表格のひとりがバディ・ホリーだ。

自動車業界というカテゴリーが正しいのかどうか、「電気自動車」のいまと未来。
音楽の世界に置き換えたら1954年。そんな気がする2010年の幕が明けました。
エルヴィスの年、つまり1956年ですが、2年後となるタイミングには、電気自動車はiPodが誕生したような興奮になっているかも知れません。

「エルヴィスがいなければ、僕たちは何もできなかった。(バディ・ホリー)」


バディ・ホリーは、エルヴィス・プレスリー、その存在が事件になる前の1955年にエルヴィスに会っている。エルヴィスの影響を受けてロックンロールに傾倒した代表的なミュージシャンだが、1959年には飛行機事故で急死。



曲 ペギー・スー



映画『アメリカン・グラフィティ』では「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わった」というセリフがある。
その他のロッカーたちは事故や逮捕などトラブルに見舞われていた。ロックンロールのキング、エルヴィスが兵役に就いていた間のことだった。


ビートルズがバディ・ホリー&ザ・クリケッツの模擬からスタートしたのは有名なこと。
ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは「バディは何でも自分でやった天才だった。バディはバンドとしても最初で、最高でだった。」と語っている。

70年代には、バディ・ホリーのヒット曲のひとつ、<イッツ・ソー・イージー>を、リンダ・ロンシュタットがカバーしてヒットさせていた。

「エルヴィスがいなければ、僕たちは何もできなかった。」というバディの言葉からは、音楽の問題だけでなく、それ以上に社会的な問題が届いてくる。
キース・リチャーズの「俺たちもやっていいんだ」という言葉もそうだ。
ジョン・レノンの「エルヴィス以前には、なにもなかった」は、音楽的な意味も含めて有名だ。
人間は絶対に他者を変えることはできないものだ。
それでも、ひとりの人間が、世界に与えたインパクトと影響のすごさには驚かずにはいられない。

1. ザットル・ビー・ザ・デイ

2. オー・ボーイ!

3. ノット・フェイド・アウェイ

4. テル・ミー・ハウ

5. メイビー・ベイビー
6. エヴリデイ

7. ロック・アラウンド・ウィズ・オリー・ヴィー

8. イッツ・ソー・イージー

9. アイム・ルッキン・フォー・サムワン・トゥ・ラヴ

10. ペギー・スー

11. アイム・ゴナ・ラヴ・ユー・トゥー

12. ワーズ・オブ・ラヴ

13. レイヴ・オン

14. ウェル…オール・ライト

15. リッスン・トゥ・ミー

16. シンク・イット・オーヴァー

17. ハートビート
18. リミニシング

19. イット・ダズント・マター・エニモア

20. トゥルー・ラヴ・ウェイズ




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2010年5月1日土曜日

ハートブレイク・ホテル  エルヴィス・プレスリー



ハートブレイク・ホテル

1955年11月、エルヴィス・プレスリーはRCAビクターと契約を実現した。

テネシー州メンフィスのサン・レコードを後にして、1956年1月10日、ナッシュビルのRCAスタジオでレコーディングは始まった。

そして、すべては<ハートブレイク・ホテル>から始まった。



その存在の大きさゆえにエルヴィス・プレスリーほど、そのスタート地点から今日まで称賛と非難を浴びてきたミュージャンはいないだろう。

時とともに質を変えながらも、相変わらずニ分した意見は今後も続くだろうが、時間が経過するほどにおそらくその功績に見合った評価が高まって行く気がする。

アメリカの南部地方、テネシー州メンフィスの小さなレコード会社サン・レコードからデビューしたエルヴィス・プレスリーと幾人かのミュージシャンのパフォーマンスは、これまでのどのカテゴリーにも属するようで属さないものだった、

なかでもエルヴィス・プレスリーの音楽は、特に<ハウンドドッグ>では、ひときわ異質で下品、卑猥と中傷された。

”ロカビリー”という言葉が使われるまで、ごく一部のプロを除いて、権力、メディアはこぞって無視するばかりか、石を投げ付けた。支持したのは第二次世界大戦後に育ってきた”まだ無知とされる若い民衆”と”無知な野蛮人”として歴史的に長い間、排斥されていた黒人だった。

やがて地方で起こっているエルヴィス・プレスリー騒動が、大手レコード会社に届き、エルヴィスとの契約を求めた。

最も多額の金額を提示したRCAと1955年11月に契約。翌56年1月10日、エルヴィスはメジャー・デビュー作<ハートブレイク・ホテル>を録音した。

エルヴィスのRCAに於ける最初のヒット曲をつくるために取り組んだ作者はメイ・アクストンとトミー・ダーデン。

フロリダにあったホテル、新聞記事になった自殺者の「ひとりで寂しい通りを歩きます」という遺書がヒントにして誕生した。

彼女が俺を捨ててから
新しい溜まり場を見つけた
淋しい通りのはずれにあるハートブレイク・ホテルさ
俺は一人ぼっち、俺は一人ぼっち
淋しくて死にそうだ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋人たちが
自分の悲しみを嘆く場所
淋しい気持ち、淋しい気持ちになる
みな淋しくて死にそうだ

ベル・ボーイの涙は止まらない
フロントは黒い服を身につけている
みな淋しい通りで淋しい時を過ごしてきた
過去を振り返るヤツなど誰もいないそこではみな一人ぼっち、
みな一人ぼっち
みな淋しくて
死にそうだ

もしも恋人に捨てられて
グチをこぽしたいのなら淋しい通りにあるハートブレイク・ホテルに行きな
おまえは一人ぼっち、おまえは一人ぼっち
淋しくて死にたくなるぜ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋入たちが
自分の悲しみを嘆く場所
おまえは一人ぼっち、みな一人ぽっち
淋しくて死にたくなる場所さ

彼女が俺を捨ててから
新しい溜まり場を見つけた
淋しい通りのはずれにあるハートブレイク・ホテルさ
俺は一人ぼっち、俺は一人ぼっち
淋しくて死にそうだ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋人たちが
自分の悲しみを嘆く場所
淋しい気持ち、淋しい気持ちになる
みな淋しくて死にそうだ

ベル・ボーイの涙は止まらない
フロントは黒い服を身につけている
みな淋しい通りで淋しい時を過ごしてきた
過去を振り返るヤツなど誰もいないそこではみな一人ぼっち、
みな一人ぼっち
みな淋しくて
死にそうだ

もしも恋人に捨てられて
グチをこぽしたいのなら淋しい通りにあるハートブレイク・ホテルに行きな
おまえは一人ぼっち、おまえは一人ぼっち
淋しくて死にたくなるぜ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋入たちが
自分の悲しみを嘆く場所
おまえは一人ぼっち、みな一人ぽっち
淋しくて死にたくなる場所さ


バックはギター/スコティ・ムーア、チェット・アトキンス、ベース/ビル・ブラック、ドラムス/D.J.フアンタナ、サン・スタジオからのメンバーにピアノ/フロイド・フレーマー、コーラス/ゴードン・ストーカーそしてチェット・アトキンス、が加わった。

エルヴィスはこれまでのサン・レコードで録音した楽曲とまったく違うものに取り組んだ。
それはゴールデンレコード第1集を聴いても歴然だ。他の楽曲と一線を画している。世の中もRCAもこの段階でまだ”ロックンロール”あるいは”エルヴィス・プレスリー”がなにかよく見えていない。R&Bでもカントリーでもないし、そうでもあるような。ピアノも加わった。

曲は暗く陰鬱。最初は伴奏もなく、全編ほとんどアカベラに近い。サンのオーナー、サム・フィリップスは懸念したが、エルヴィスは自信を持っていた。

ロバート・ジョンスンを超えるつもりがあったのかも知れない。エルヴィスはエルヴィス・プレスリーなのだから。

かってサンのドアを開いた時の質問に答えて「ボクは何でも歌えます、ボクは誰にも似ていない」と語った言葉をそのまま実証した。エルヴィスにとって歌とは自らの情念を沸点の極限までに叩き込むことに他ならない。

音楽に対しては、それ以外の興味を持っていなかったのではないかと思える。

その後、ビートルスやビーチ・ボーイズがやったような電気技術を駆使した音楽とは全く別の世界にエルヴィスは価値を見い出していた。歌も楽器もコーラスも生の音楽、歌こそ自身の知性。生の音楽だからこそ魂は宿る。ロックの歴史でエルヴィスにもっとも近似しているのは1977年のロンドン・パンクだと思えるのはそのような理由からだ。

エルヴィスはクラシックとジャズは分からないと明言していた。しかし<ハートブレイク・ホテル>にはジャズの匂いすらしてくる。

ロバート・ジョンスンが一本のギターでふたり分のプレーをしたように、エルヴィスの声がピアノもベースも演奏しているように聴こえる。静かなドラムビート、ピアノは血が流れる音のように聴こえる。ギターとピアノの”ジャンジャン”がエルヴィスの魂の動きにズレているように聴こえる。エルヴィス・プレスリーの中に住む天使と悪魔が葛藤しているのだろう。