ジョニー・キャッシュ、クライ・クライ・クライ、アイ・ウォーク・ザ・ライン、ジューン・カーター、「メン・イン・ブラック」の愛称・・・・
アイ・ウォーク・ザ・ライン~君につづく道
/ ジョニー・キャッシュ
ジョニー・キャッシュをご存知ですか?
特徴のある深いバス=バリトンの声の持ち主。
カントリー・ミュージックの殿堂、ロックの殿堂、ゴスペル・ミュージックの殿堂。3つの殿堂に入りを果たしたシンガーソングライター。
ジョニー・キャッシュを主人公にした伝記映画『ウォーク・ザ・ライン I Walk The Line~君につづく道』が2005年11月に公開されジューン役のリース・ウィザースプーンが主演女優賞を受賞した。
映画『ウォーク・ザ・ライン I Walk The Line~君につづく道』に好意的でない人も多い。その理由は「なんで?普通の出来栄えなのに。」というものだが、演技者の歌のうまさに脱帽する人は多い。
またジョニー・キャッシュのフアンは別として、つまり伝説のプロポーズにも嫌悪する人も多い。その前提にある破綻ぶりに純愛とは言い難い印象を受けるからだ。自分もそのひとりである。しかし人間とはそういうものかも知れない。と思うものの、ここまで依存せずに生きられなかった苦しみはどこで生まれたのかと考えてしまうのです。
1956年12月4日、サン・スタジオでとカール・パーキンスと、ジェリー・リー・ルイスが新曲のレコーディング中、すでにRCAレコードからデビュー、大ヒットを連発していたエルヴィス・プレスリーがサム・フィリップスに会いに来た。ちょうどジョニー・キャッシュもスタジオに居合わせたので、4人は即興のセッションで遊び始めた。これが後に「ミリオンダラー・カルテット」としてリリースされたアルバムの音源となった。
ジョニー・キャッシュはエルヴィス・プレスリーとほぼ同時期にサンスタジオからデビューした。エルヴィス・プレスリーはジョニー・キャッシュより3歳年下だが、キャッシュが契約をしたがっていた頃、サム・フィリップスはエルヴィス・プレスリーのプロデュースに熱中していた。
一方、ジョニー・キャッシュは、1955年6月下旬、サン・レコードからシングル<ヘイ・ポーター(Hey Porter)B面<Cry! Cry! Cry! >をリリースし「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビューした。
このシングルはビルボード誌全米カントリーチャート14位を記録するヒットになった。この時期がエルヴィス・プレスリーとジョニー・キャッシュが、サンが擁する同じレーベルのミュージシャンであった。またツアーコンサートで彼らは旅して歌った時期である。
しかし、サム・フィリップスは金と引き換えに稀代の才能<エルヴィス・プレスリー>をメジャーレーベルだった<RCAレコード>に手放した。彼に思い切った決断をさせたのは、エルヴィス・プレスリーを手放しても、サンにはまだ「ミリオンダラー」を現実にするアーティストに加え、ロイ・オービソンが残っている、その資金で事業の拡張ができると判断したからだ。
RCAに移籍したエルヴィス・プレスリーは1956年1月に、まず最初の曲<ハートブレイクホテル>で早々に全米レベルのスターになり、次々にミリオンダラーを連発してまたたく間にサブカルチャーを塗り替える。
1956年4月、シングル<アイ・ウォーク・ザ・ライン I Walk The Line>をサンスタジオからリリース。初の6週連続1位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の座を手に入れた。
1957年7月、ジョニー・キャッシュはサンからようやく念願のアルバムをリリースし、サンのヒットアルバムになったものの、サムはジョニー・キャッシュのゴスペルのレコーディングに熱心ではなく、ロックンロールに傾注していた。音楽性と金銭の問題からジョニー・キャッシュはコロムビア・レコードに移籍。シングル『Don't Take Your Guns to Town 』を発表し、大ヒットさせる。
1958年になると、エルヴィス・プレスリーの召集などロックンロールの世界に事件が相次いで起こり、驚異的な人気を誇った第一次ロンクンロール旋風は急速に下火になり、入隊したといえども唯一エルヴィス・プレスリーがその存在を輝かせていた。
一方、エルヴィス・プレスリーより遅れたデビューとなったジョニー・キャッシュは、ヒット曲を出すかたわら、アルコール依存症にはじまりあらゆる薬物中毒に陥っていたのと併せて不倫、浮気で私生活は破綻の一途をたどっていた。この悪化する一方の事態は映画『ウォーク・ザ・ライン I Walk The Line~君に続く道』で詳しく描かれている。
1960年、”フルーク"の愛称で親しまれるドラマーのW.S.ホランドがバンドに加入したことから、バンド名を「ジョニー・キャッシュとテネシー3」に変更する。
1965年のツアー中、麻薬をメキシコ国境からヘロインを密輸しようとした容疑でテキサス州エル・パソで逮捕された。しかしギター・ケースに隠した薬は合法的な処方箋に基づくものとして、執行猶予を受けるに止まった。
この時期、アルバム作りは意欲的だったが、相変わらずの破綻ぶりで離婚する。
1967年には、ジューン・カーターとのデュエット<Jackson >がグラミー賞を受賞、その一方でジョージア州ウォーカー郡で処方薬入りのバッグを所持した上で交通事故により逮捕された。さらに保安官を買収しようとして怒らせ、ジョージア州ラファイエットの刑務所で一夜を過ごすことになる。この事件で保安官から熱心な忠告を受け、ようやく人生を見直す機会を得て、更生を誓う。
しかし重い禁断症状に苦しみニッカジャック洞窟で自殺を企てる。この後も薬物の克服の葛藤は続く。やがて・・・・
1968年2月22日、オンタリオ州ロンドンにあるロンドン・ガーデンズでのコンサートで観客を前に演奏中にジューン・カーターに「君と結婚したい。いま返事してくれないとこれ以上歌えない」と半ば脅迫的に電撃プロポーズした。これが後世に語られる伝説のプロポーズである。
翌週3月1日、2人はケンタッキー州フランクリンで結婚した。長年、ジョニー・キャッシュの申し出を受け付けなかったジューンはキャッシュが全てを精算した上で結婚に同意した。
しかしジューンの妊娠中に彼女の姉妹とまたも浮気をしてしまう。やがて1970年、ジューン・カーターとの間に誕生した息子ジョン・カーター・キャッシュの誕生によって、15年に及ぶ薬物中毒から完全に克服する。しかし1977年、再度アンフェタミンに手を出してしまった。
1983年までにまた薬物中毒になり、リハビリのためカリフォルニア州ランチョ・ミラージュにあるベティ・フォード・クリニックに入院した。何年間かは薬物から遠ざかっていたが、1989年までにまた依存症になり、ナッシュビルのカンバーランド・ハイツに入院した。
1992年、最後のリハビリのためカリフォルニア州ロマ・リンダにあるロマ・リンダ行動医療センターに入院する。数ヵ月後、息子もこの施設に入院する羽目になる。
2003年5月15日、妻ジューン・カーター・キャッシュが73歳で死去した。ジューンは生前、キャッシュに仕事を続けるよう語ったため、キャッシュはレコーディングを続けてその後の4ヶ月間で60曲以上を完成させ、2003年9月12日午前2時頃、糖尿病による合併症で亡くなった。
ジューン・カーター・キャッシュ他界の痛みによる死亡と見られれいる。
つまりジョニー・キャッシュは愛する女性と音楽と薬物に生きた生来の依存症であったと考えられる。
テネシー州ヘンダーソンヴィルの自宅近くにあるヘンダーソンヴィル・メモリー・ガーデンズで妻の隣に埋葬された。
2003年7月5日、ジョニー・キャッシュは彼の最後のコンサートで<Ring of Fire >を歌う前に、亡き妻への思いを読み上げた。
今夜、彼女の私への愛と私の彼女への愛と共にジューン・カーターの魂が私を訪れる。私達はここと天国の間で繋がっている。今夜彼女は天国から少しの間訪れた。きっと私に彼女がいつも持ち合わせていた勇気と創造力を与えるために。
1944年5月、13歳の時に、仲良しだった兄ジャックとともに農作業中に農機具による事故が起こり兄は他界する。父親はジョニー・キャッシュに冷たく当たりこの事件で罪悪感に苛まれた。彼が父親から受けたメッセージに含まれた意味は「お前が死ねば良かった」というもので「生きるな」という禁止令だった。
『アイ・ウォーク・ザ・ライン I Walk The Line~君に続く道』の君とは、ジューン・カーターのことだと誰もが解釈するだろうが、自分には兄ジャックのようにしか思えない。
禁止令と生への欲求・・・死にながら生き抜いた、無意識の葛藤に苦しんだ壮絶な生涯でした。