2010年11月23日火曜日

ビー・バップ・ア・ルーラ/ジーン・ヴィンセント



ビー・バップ・ア・ルーラ/ジーン・ヴィンセント

<ビー・バップ・ア・ルーラ>を聴いたとき、エルヴィス・プレスリーはどう思ったのだろうか?
初期のエルヴィスが得意としていたヒーカップ唱法が、なんともカッコよすぎて、衝撃的だ。生粋の白人ロックンロールナンバーとしては最高のひとつだ。そしてB面に<ウーマン・ラヴ>を仕込んだシングル盤の雰囲気もたまらなくクールだ。

どういう経緯で手に入れたのか記憶にないのだが、ボクはこのキャピトルからリリースされたシングル盤を持てたことがたまらなくうれしい。もちろんいまでも持っていて、それは宝物のひとつだ。

ジーン・ヴィンセント (Gene Vincent、1935年2月11日-1971年10月12日)は1950年代後半にアメリカ文化を変えたロカビリーを代表するひとりであり、ジーン・ヴィンセント & ヒズ・ブルー・キャップス のヴォーカリストでもある。

ブルー・キャップスからは、もうひとり、ギタリスト、クリフ・ギャラップのギャロッピング奏法が歴史にその名を刻んでいる。親指でベースラインを、その他の指でメロディラインを弾くギター奏法で、弾いている指が、馬が駆け足のように動く。<ビー・バップ・ア・ルーラ>の音源はいくつかのテイクが現在も流通しているが、ギターサウンドが強調されたものもあり、アガらずにはいられない。

エルヴィス・プレスリーバディ・ホリーとともにジョン・レノン、ポール、ポール・マッカートニー  に与えた影響の大きさは知られているが、ビートルズに限らずすべてのロックンロールシーンに与えた影響は大きい。

Gene Vincent(ジーン・ビンセント)は1935年2月11日にアメリカ・ヴァージニア州で誕生。
本名ヴィンセント・ユージン・クラドック(Vincent Eugene Craddock)。生家はとても貧しく、多くのロック・ミュージシャンf同様、苦労して成長している。

1947年、 いまのように簡単にレコードが買えない時代、エルヴィスと同じように音楽の入り口は教会の賛美歌だった。


1950年、サウス・ノーフォーク・ハイスクールへ進学するも、中退して海兵隊に入隊。しかし1953年、入隊中にバイク事故を起こし、左足が曲がらなくなる悲劇に見舞われる。負傷した左足の障害は生涯続いた。
除隊した ジーン・ビンセント はノーフォークのローカルラジオ局と契約。ディスクジョッキー、ビル・(シェリフ・テックス)・デイビスに誘われカントリー・ショウに出演。エルヴィス・プレスリーのものまねをやってのけ喝采を浴びる。

これを機にビル・デイビスがマネージャーになり、地元のミュージシャンを集めバックバンドのブルー・キャップス(Blue Caps)を結成。

ここから、ビルとジーンによりロックンロールの名曲のひとつ"Be Bop A-Lula"が誕生する。
彼らはデモ・テープをキャピトルレコードに送ります。しかし審査の結果は反対が優勢だった。しかし幹部のひとりケン・ネルソンのジーンへの強い支持によって、どんでん返しの結果になり契約が成立する。



その年に、デビュー・シングル"Be Bop A-Lula"を発表、全米9位にチャート・インする大ヒットになる。 ジーン・ビンセントの甘いルックス、セクシーさを前面に押し出したスタイルは、エルヴィスにもっとも近く、しかしオリジナリティのあるエキセントリックなスタイルはいま聴いても衝撃的だ。

ジーン・ビンセントはロックンロールブームの中、エルヴィスとモンローのフォロワーを全員集合させたような貴重な映画『女はそれを我慢できない』さらに "Hot Rod Gang にも出演する。
"Be Bop A-Lula" に続いて、シングル"Race With The Davil"(96位)、"Bluejean Bop"(49位)、 1957年、"Lotta lovin'"(14位)、"Dance To The Bop"(43位)と発表するが、 "Be Bop A-Lula" を超えるヒットは出なかった。

やがて相次ぐロックンロールスターの一線からの撤退を余儀なくされたこととともにロックンロールが下火に向かったこともあり、アメリカ国内では不発の連発に終わる。


活動の場をヨーロッパに移すようになるが、なかでもロックンロールブームが続いていたイギリスが活動の中心に移る。これがビートルズ誕生に大きな影響を与えている。

しかし、そのイギリスをツアー中、エディ・コクランと一緒に乗ったタクシーが街路樹に衝突。エディ・コクランは翌日死亡。 ヴィンセントは助かったものの、以後車椅子生活を余儀なくされ一線から退くことになる。

60年代になって、車いすでステージをこなし、イギリスのファンから喝采を浴びる。

1971年10月12日、キャピトルレコードのあるロサンゼルスのインターバリー・コミュニティー・ホスピタルで、胃潰瘍で死去。36歳の若さだった。ロサンゼルスのEternal Valley Memorial Park に埋葬された。

”Be Bop A-Lula"一曲に人生が眩しく煌めいた、まさにビーバップ人生だったようだ。
そのエキセントリックなスタイルは、いわゆる「一発屋」の領域を大きく超えた存在であり、セックス・ピストルズ、クラッシュに代表される70年代のイギリス・パンクの原型ともいえる。

1996年、ふさわしい評価を受けて「ロックの殿堂」入りした。




2010年11月3日水曜日

ロンサム・タウン / リック・ネルソン



ロンサム・タウン/LONESOME TOWN

ポール・マッカートニーが歌う「ロンサム・タウン」が絶品だ。日本語で歌っているような錯覚をしてしまうのは、メロディーラインの美しさのせいか。ポールの思い入れが切なく響く。



こういう歌を聴くと、山ほどあるつまらない曲を聴いている時間がもったいない。「ロンサム・タウン」はもちろん、Rick Nelson リック・ネルソン(リッキー・ネルソン)の曲だが、ポールが歌うには特別な理由がある。

「亡くなった妻リンダと知り合うずっと昔、ふたりとも、この曲が好きで、大西洋を挟んだ違う場所で、同じ時期に聴いていたんだ」

リンダがこの歌が特別好きだったことの思い出しながら、ポールは心こめて歌っています。その思い入れが、理由を知らない人を揺り動かす力になっています。

時間が過ぎても、いい歌には、それだけの物語を生み出す力があるということでもあります。

リッキー・ネルソンは、1940年米国ニュージャージー州生まれ。芸能一家に生まれ、子供時代からTVのファミリー・ドラマに出演。
1956年のエルヴィス登場事件の1年遅れて1957年、ロックンロールブームの真っ只にポップス最前線登場します。気品のあるマスク、過激なロックンロールをマイルドにした親に安心して聴けるサウンド、日本人好みの”アメリカンポップス”でお茶の間に登場。人気を博します。

ビルボードNo.1になった<トラブリン・マン>や<ハロー・メリー・ルウ><ヤング・ワールド><プア・リトル・フール>などがヒットする一方、映画にも出演、ジョン;ウェイン、ディーン・マーティンと共演した傑作ウエスタン「リオ・ブラボー」でのディーン・マーティンとのかけ合いも忘れられない。演技の動作がエルヴィス・プレスリーそっくりなのもご愛嬌。

バンドには、ステージ復活から最後までエルヴィスと行動を共にしたリードギターの名手ジェームス・バートンも参加していました。



1962年からリック・ネルソンに名前を変更。1963年にはデッカレコードと20年の長期の契約を交わします。しかしこれといったヒットが出なくなります。ポピューラーミュージックの急激な変化に対応に腐心しますが、先見性のあるサウンドを追及、その中には後にイーグルスのメンバーになるランディ・マイズナーもバンドに参加します。

1985年12月31日、飛行機事故で突然この世を去ります。爽やかな風貌を焼き付けて切なさを置き去りにして。。。




2010年9月22日水曜日

ブルーベリー・ヒル/ファッツ・ドミノ



ブルーベリー・ヒル/ファッツ・ドミノ

ファッツ・ドミノ(Fats Domino, )本名 アントワーヌ・ドミニク・ドミノ、1928年2月26日 -, ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ)は、ロックンロール黎明期1950年代後半から1960年代初期のアメリカで最も売れた黒人歌手のひとりであり、記憶に残る代表的なニューオーリンズR&Bミュージシャンだ。

しかし、ファッツ・ドミノの場合、その功績からしても、畏敬の念を持って、ロックンローラーと呼ぶのが妥当だろう。

ファッツ・ドミノは作曲家でありブルース調のピアニストでもあり、ストライド奏法とブギウギの影響を受けた独自のスタイルが好評で白人からも支持された。愛すべき太っちょの巨体、愛嬌のある笑顔、軽やかに鍵盤を叩く指先、甘く親しげな高めのバリトンの声、揺れる巨体とブグウギのリズム、そのどれもが愛情に満ちた印象になって、ロックンロールのよき時代を伝えている。
特筆すべきは彼こそがニューオーリンズ独特のサウンドを持ち味にしていたことであり、ニューオーリンズの歴史と文化の伝道者であったことだ。

1949年、インペリアル・レコードより"Detroit City Blues"でデビュー。B面に収録された"The Fat Man"がR&Bチャート2位の大ヒットを記録する。インペリアルには1963年まで在籍し、デイヴ・バーソロミューのプロデュースと共作のもと、数多くのヒットを世に送り出し、1986年にはロックの殿堂入りしている。

ファッツ・ドミノの成功を語るときに、忘れてはいけない人物がいる。ファッツ・ドミノがインペリアル・レコードと契約した時、もうひとり契約した人物がいる。トランペット奏者であり、ソングライターであり、バンドリーダーであり、プロデューサーでもあったデイヴ・バーソロミュー (Dave Bartholomew)である。

彼こそが最初のヒット"The Fat Man"以来、ファッツ・ドミノを陰で支えた功労者であり、ロックンロールへ多大な貢献をした。ロイド・プライスの"Lawdy Miss Clawdy"、スマイリー・ルイスの"I Hear You Knocking"、"One Night"、シャーリー&リーの"Let the Good Times Roll"など歴史に残るヒット曲のプロデュースを手がけている。デイヴ・バーソロミューもまたロックの殿堂入りを果たしている。



ファッツ・ドミノの代表曲には、エルヴィス・プレスリーがカバーした"Blueberry Hill"をはじめ"Ain't That a Shame"、"Walking To New Orleans"、"I'm Walkin'"、"Blue Monday"など多数あり、ミリオンセラーになったのは実に23曲に及ぶ。この記録はエルヴィス、ビートルズに次ぐ大記録である

1963年にABCレコードへ移籍したが、ポピュラー音楽のサウンド変遷後、突然起こったブリテイッシュサウンドブームに押されて、インペリアル時代に匹敵するヒットは出なかった。

ニューオーリンズに自宅を構えていたが、2005年のハリケーン・カトリーナで浸水。一時は行方不明になり、話題を集めたが、無事救出されオールドファンをホッとさせた。その後、カトリーナの前にレコーディングした新作「Alive & Kickin'」をリリースしている。

同年春のニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル最終日のトリを務める予定だったが、体調不良からキャンセルしたものの、会場ステージに登場して観客に謝罪した。



2010年7月20日火曜日

ホワッド・アイ・セイ / レイ・チャールズ



ホワッド・アイ・セイ / レイ・チャールズ


 1959年2月のある日。バンドはすでにリハーサルを終えていた。11時になるとレイ・チャールズがやってきた。3テイクを終えるとレイは速やかにアトランティックのスタジオを去った。

 プロデューサーでありサウンドエンジニアであるトム・ダウドは残されたマスターテープの編集作業に取り掛かった。シングル盤の標準的な長さにするために切り落としていた。つまりジュークボックスにふさわしい長さだ。

 マスターには8分からなるものが収録されていた。切り落とした後の音源には怪しい歌詞も含まれていたが、トムは気がつかなかった。マスターディスクをアトランティックの本社に送った。やがて、本社から「削除しろ」とクレームがついた。

 ようやくリリースにこぎつけたとき<WHAT'D I SAY / ホワッド・アイ・セイ>は3つのヴァージョンが完成していた。



 <WHAT'D I SAY / ホワッド・アイ・セイ>は、レイの最高傑作といわれている。
 1959年にリリースしたこのシングル盤はゴールド・デスクを獲得、レイ・チャールズ初のミリオンセラーとなった。

 <WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>のヒットによってレイ・チャールズの存在はポップス・ファンの間でも広く知られる様になった。この曲が、世界中にアメリカの黒人音楽の魅力と、その独特のグルーブ感を伝えるのに充分な役目を果たス役割を担った。
その前年1958年に軍に入隊したエルヴィス・プレスリーの空白を埋めるきっかけにもなった。

 しかし、その一方で、ゴスペルを大胆にアレンジしていたことから敬虔なクリスチャンからは非難されていた。
最初に日本でシングル・リリースされた時、<WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>は<何と言ったら>という邦題が付けられた。

 ヒットから6ヶ月後、レイ・チャールズは育ての親であるアトランテックを離れ、最高の移籍金と複数年契約を条件にABCレコードに移籍する。この時、彼はまだ29歳だった。

 R&B風味の濃い50年代のアトランティック時代、60年代に入ってからのカントリー・ナンバー等も取り上げて、より広いポピュラリティを獲得したABC時代。2つのレイ・チャールズを通して、<ホワッド・アイ・セイ>がレイの人生に投げかけた意味は大きい。

 クリフ・リチャードの<WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>も楽しい。1965年に日本で発売した<ダイナマイト>のB面に収録されていた。

 レイ・チャールズ(Ray Charles Robinson, 1930年9 月23日 - 2004年6 月10日)

 7歳で失明、14歳で孤児になる。盲目の黒人というハンディを背負って、自らのルーツを探すように活動、音楽ひとすじの生涯を過ごした。魂の旅の途中、20年近く麻薬を常用していて、1965年に3度目の逮捕後、ロサンゼルスの更生施設に入所、ようやくヘロインを絶つことに成功した。、1979 年4月24日、ジョージア州議会はレイのもうひとつの大ヒット曲<わが心のジョージア>を正式な州歌と定めている。

 エルヴィス・プレスリーは、レイの作品から<WHAT'D I SAY /ホワッド・アイ・セイ>と共に<アイ・ガット・ア・ウーマン><愛されずにいられない>を生涯歌い続けていた。




2010年5月23日日曜日

トゥッティ・フルッティ/リトル・リチャード


トゥッティ・フルッティ/ Tutti Frutti

 ”ワッバップ・ルッマップ・ラッバン・バン”

 アメリカ人でも?????だ。意味を知りたければ腰を使え。そういう歌だ。それしかない歌だ。東にロック、西にもロック、彼女は一番のお気に入り ♪

 ”ワッバップ・ルッマップ・ラッバン・バン”の主は心で泣いていた。

 その人の名はリトル・リチャード。R&Bシンガーとしてのキャリアが3年経過していたが、ヒットに恵まれなかった。スペシャルティのスタジオでレコードセッションをやっていたときのことだった。テイクの間の時間、リトル・リチャードはバンドの面々とふざけあっていた。

Tutti Frutti、尻を振って!、セックスを歌にしたバカ騒ぎだ。バカ騒ぎではあるが、それは自身の無防備な解放だ。自分が自分の戻った瞬間だ。もちろんプロデューサーのバンプス・ブラックウェルにもこんな歌を作るつもりもなかった。それにしても楽しすぎた。エルヴィス・プレスリーが偶然カントリーをロックンロールにしてしまったのと同じシチュエーションだ。

 偶然、レコーディングされたわいせつな<トゥッティ・フルッティ>は、ソングライターを雇って書き換えが行われた。そしてラジオ放送が可能なレベルに歌詞の変更がすんだ後、<トゥッティ・フルッティ>を再録音にかかった。リトル・リチャードはテイクを重ねるたびに曲の時間を測定し秒単位で短縮を重ねに重ねた。弾丸のようなR&Bを発射するためにスピードアップを図った。そしてリトル・リチャードのスタイルと音楽は世に出た。



 <トゥッティ・フルッティ>はリトル・リチャードの初めてのヒット曲になった。しかしその本当の精神がそのまま受け入れられたわけではない。しかもパット・ブーンが現れて、その人気を横取りしていった。リトル・リチャードは泣いていた。

ロックンロールと呼ぶにはまだまだ曖昧な時代だ。そのスピーディな展開と激しいビート、個性的な声と歌唱力で<トゥッティ・フルッティ>(1955.10月、2位)<リップ・イッツ・アップ(陽気に行こうぜ)>(1956.8/1位)、<レディ・テディ>(1956.8/8位)がリトル・リチャードによってR&Bチャート・インしている・・・・<トゥッティ・フルッティ>から18ヶ月間、アウトサイダーとして人気者を続けた後、リトル・リチャードは1958年に傑作<ルシール>を残してロックンロールを捨てる。

「ある時世界が燃え上がり空が熱によって溶けてなくなった夢を見た。しばらくしてフィリピン行きの飛行機に乗っていると突如火を噴きはじめた。私が神に祈ると火が消えた」と語った。

有名な言葉と共に1万ドルの宝石を海に沈め、アラバマの神学校で伝道師を志して信仰の道に入った。

Wop-bop-a-loom-bop-a-lop-bam-boom
Tutti frutti,ah rutti
Tutti frutti,ah rutti
Tutti frutti, ah rutti
Tutti frutti, ah rutti
Tutti frutti,ah rutti
Wop-bop-a-loom-bop-a-lop-bam-boom

・・・・リトル・リチャードが再びロック・シーンに戻ってきたのは、1965年だった。7年が過ぎていたが、彼がふりまいたロックンロールの魔法の粉はイギリスとアメリカをまたいだ虹になっていた。



2010年5月11日火曜日

ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン / ジェリー・リー・ルイス


ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン

<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>は、ロックンロールの歴史に燦然と輝く金字塔、ただの金字塔ではない。いつまでも燃え続ける金字塔だ。

ジェリー・リー・ルイスは「ザ・キラー」(The Killer)と呼ばれていた。

ジェリー・リー・ルイス(Jerry Lee Lewis)は、1935年9月29日、アメリカ合衆国ルイジアナ州フェリディで誕生した。
1957年、<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン><火の玉ロック>のヒットで一躍スターダムにのし上がった。ロックンロール黄金時代の旗手のひとりだ。

立ったままピアノを弾くというより叩きながら歌う、さらにピアノに油と火を放って燃やす、破壊的でワイルドなスタイルとパフォーマンスが衝撃的だった。

 ジェリー・リー・ルイスはエルヴィス・プレスリーがそのキャリアをスタートさせたテネシー州メンフィスのサン・レコードからデビューした。エルヴィスから遅れること2年、1956年のことだった。

 サン・レコードのオーナー、サム・フィリップスとジェリー・リー・ルイスの出会いは、1956年9月。すでにRCAに移籍したエルヴィス・プレスリーが世界を席巻していた。ジェリー・リー・ルイスはメンフィスに行き、オーディションを受ける。サム・フィリップスはいなかったが、代わってエンジニアのジャック・クレメントが演奏を聴いた。もう少し学べば更に良くなるとアドバイスする。

その年の11月14日、”Jerry Lee Lewis And His Pumping Piano”のバンド名で最初のレコード<クレイジーアームス>をリリースした。さらに1957年3月1日、ワン・テイクで録音した<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>を2枚目のシングルとしてリリース。TV「スティーヴ・アレン・ショー」で初めてそのスタイルが全米に届き、全米3位の大ヒットとなった。3枚目のシングルが<火の玉ロック>だ。



<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>は、危険なものを安全にして見せたという点で最高のものだ。決して安全ではなかったが、人々はそう感じた。

「歌っていると勝手に身体が動くんだ」とエルヴィス・プレスリは言った。それは「危害を加えないし、気が狂っているわけでもない」という意味だ。

今度はジェリー・リー・ルイスが、ピアノを壊し、燃やしながら、「演技じゃない、音楽のせいだ」と言ったのだ。誰が信じるだろう?信じたとしたら、信じる側が危険な存在だと思われかねない。

こうして彼らは権威を壊し、その核心に思想より感覚で切り込んでいった。危険人物でなかったが、危険であることは明らかだった。プラトニックな不倫のようだ。さっきまでなにもなく酒を飲んでいた男の横を女が通り抜けた。その瞬間、磁気が心身を貫き、男は別人になった。その女は生涯のひとになった。そんな音楽がある。<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>は数少ない燃え続ける言霊だ。意味なんかない。意味がなくてもかけがえのないものがある。意味は自分にある。

「オレが一番とは思わないさ。でも最高なんだ。」(ジェリー・リー・ルイス)
その通りだ。<ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン>を聴けば誰だって、そう思う。



2010年5月4日火曜日

メンフィス・テネシー/チャック・ベリー


メンフィス・テネシー/チャック・ベリー

はっきりしていることがある。<メンフィス・テネシー>は人間の歌だということだ。

<メンフィス・テネシー>は、1958年にリリースされた。チャック・ベリーは離婚していなかったし、メンフィスに住んでもいなかったが、<メンフィス・テネシー>はマリーという娘への感情をドラマティックに語っていた。

チャック・ベリーは 1926年10月18日、ミズリー州セントルイスで誕生した。

ビートルズが60年代に<ロール・オーヴァー・ベートーベン><ロックン・ロール・ミュージック>をカヴァーしたことで広く認知された。少なくともボクはそれで知った。

1986年にロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りした理由でも分かるように、チャック・ベリーは、もっとも早く来たロックンローラーだった。そしてもっとも遅れて来たロックンローラーだった。甘美な声と「メンフィス・ビート」と呼ばれるスライドギターが特長的だ。



無名だったエルヴィス・プレスリーがドザ回りをしていたとき、チャックベリーの<メブリーン>を歌っている。そして1956年にエルヴィスによってロックンロールの扉が開かれたが、1958年、エルヴィスは軍隊に召集。リトル・リチャードは引退した。1959年にはチャック・ベリーが姿を消し、バディ・ホリーの飛行機事故死(1959年)、エディ・コクラン(1960年)交通事故死とジーン・ヴィンセント(1960年)交通事故と不幸が相次いだ。

1959年、チャック・ベリーは刑務所に入っていた。スキャンダラスな事件で収監されていた。

こうして先駆者たちが一線から消えた後、60年代になると、ロックンロールを教わったこどもたちが一斉攻撃をかけはじめた。ビーチボーイズが、チャック・ベリーのイントロをそのまま使って<FUN FUN FUN>でやって来た。イギリスではビートルズが<ロール・オーヴァー・ベートーベン>をアルバムに入れてメジャーデビューした。

<FUN FUN FUN>も<ロール・オーヴァー・ベートーベン>もカッコよかった。ロックンロール第2世代のブームに乗って・・・チャック・ベリーはダック・ウォークで戻って来た。

1964年に<メンフィス・テネシー>は<Little Marie>に改題して再販、大ヒットした。みんながかってのロックンロール・ヒーローのダック・ウォークを真似した。

65年には、ジョニー・リバースが<メンフィス>のタイトルでヒットさせ日本でもチャートインした。


(エルヴィスプレスリーがカバーしたメンフィステネシー)

マリーという娘と父の別離を歌っていたが、チャック・ベリーはメンフィスに住んだことはなかった。ロックンローラーにしてメンフィス・テネシーをこよなく愛する住人、エルヴィス・プレスリーがこの切ない物語を歌わないわけはないと思われていた。エルヴィスは1963年5月27日にレコーディングしているが、64年1月12日に再度レコーディングした。そのバージョンが1965年7月にアルバムに収録されてリリースされた。

マリーへの伝言を受け取ったおじさんは壁に書きなぐっている。キュンキュンと胸の痛みがギターから聴こえてくる。



2010年5月2日日曜日

イッツ・ソー・イージー
/バディ・ホリー



イッツ・ソー・イージー

人間は絶対に他者を変えることはできない。それでも、影響を与えることはできる。

影響力が結果的に人を変える、その素晴らしい事例がロックンロールの軌跡にある。その代表格のひとりがバディ・ホリーだ。

自動車業界というカテゴリーが正しいのかどうか、「電気自動車」のいまと未来。
音楽の世界に置き換えたら1954年。そんな気がする2010年の幕が明けました。
エルヴィスの年、つまり1956年ですが、2年後となるタイミングには、電気自動車はiPodが誕生したような興奮になっているかも知れません。

「エルヴィスがいなければ、僕たちは何もできなかった。(バディ・ホリー)」


バディ・ホリーは、エルヴィス・プレスリー、その存在が事件になる前の1955年にエルヴィスに会っている。エルヴィスの影響を受けてロックンロールに傾倒した代表的なミュージシャンだが、1959年には飛行機事故で急死。



曲 ペギー・スー



映画『アメリカン・グラフィティ』では「バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わった」というセリフがある。
その他のロッカーたちは事故や逮捕などトラブルに見舞われていた。ロックンロールのキング、エルヴィスが兵役に就いていた間のことだった。


ビートルズがバディ・ホリー&ザ・クリケッツの模擬からスタートしたのは有名なこと。
ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは「バディは何でも自分でやった天才だった。バディはバンドとしても最初で、最高でだった。」と語っている。

70年代には、バディ・ホリーのヒット曲のひとつ、<イッツ・ソー・イージー>を、リンダ・ロンシュタットがカバーしてヒットさせていた。

「エルヴィスがいなければ、僕たちは何もできなかった。」というバディの言葉からは、音楽の問題だけでなく、それ以上に社会的な問題が届いてくる。
キース・リチャーズの「俺たちもやっていいんだ」という言葉もそうだ。
ジョン・レノンの「エルヴィス以前には、なにもなかった」は、音楽的な意味も含めて有名だ。
人間は絶対に他者を変えることはできないものだ。
それでも、ひとりの人間が、世界に与えたインパクトと影響のすごさには驚かずにはいられない。

1. ザットル・ビー・ザ・デイ

2. オー・ボーイ!

3. ノット・フェイド・アウェイ

4. テル・ミー・ハウ

5. メイビー・ベイビー
6. エヴリデイ

7. ロック・アラウンド・ウィズ・オリー・ヴィー

8. イッツ・ソー・イージー

9. アイム・ルッキン・フォー・サムワン・トゥ・ラヴ

10. ペギー・スー

11. アイム・ゴナ・ラヴ・ユー・トゥー

12. ワーズ・オブ・ラヴ

13. レイヴ・オン

14. ウェル…オール・ライト

15. リッスン・トゥ・ミー

16. シンク・イット・オーヴァー

17. ハートビート
18. リミニシング

19. イット・ダズント・マター・エニモア

20. トゥルー・ラヴ・ウェイズ




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2010年5月1日土曜日

ハートブレイク・ホテル  エルヴィス・プレスリー



ハートブレイク・ホテル

1955年11月、エルヴィス・プレスリーはRCAビクターと契約を実現した。

テネシー州メンフィスのサン・レコードを後にして、1956年1月10日、ナッシュビルのRCAスタジオでレコーディングは始まった。

そして、すべては<ハートブレイク・ホテル>から始まった。



その存在の大きさゆえにエルヴィス・プレスリーほど、そのスタート地点から今日まで称賛と非難を浴びてきたミュージャンはいないだろう。

時とともに質を変えながらも、相変わらずニ分した意見は今後も続くだろうが、時間が経過するほどにおそらくその功績に見合った評価が高まって行く気がする。

アメリカの南部地方、テネシー州メンフィスの小さなレコード会社サン・レコードからデビューしたエルヴィス・プレスリーと幾人かのミュージシャンのパフォーマンスは、これまでのどのカテゴリーにも属するようで属さないものだった、

なかでもエルヴィス・プレスリーの音楽は、特に<ハウンドドッグ>では、ひときわ異質で下品、卑猥と中傷された。

”ロカビリー”という言葉が使われるまで、ごく一部のプロを除いて、権力、メディアはこぞって無視するばかりか、石を投げ付けた。支持したのは第二次世界大戦後に育ってきた”まだ無知とされる若い民衆”と”無知な野蛮人”として歴史的に長い間、排斥されていた黒人だった。

やがて地方で起こっているエルヴィス・プレスリー騒動が、大手レコード会社に届き、エルヴィスとの契約を求めた。

最も多額の金額を提示したRCAと1955年11月に契約。翌56年1月10日、エルヴィスはメジャー・デビュー作<ハートブレイク・ホテル>を録音した。

エルヴィスのRCAに於ける最初のヒット曲をつくるために取り組んだ作者はメイ・アクストンとトミー・ダーデン。

フロリダにあったホテル、新聞記事になった自殺者の「ひとりで寂しい通りを歩きます」という遺書がヒントにして誕生した。

彼女が俺を捨ててから
新しい溜まり場を見つけた
淋しい通りのはずれにあるハートブレイク・ホテルさ
俺は一人ぼっち、俺は一人ぼっち
淋しくて死にそうだ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋人たちが
自分の悲しみを嘆く場所
淋しい気持ち、淋しい気持ちになる
みな淋しくて死にそうだ

ベル・ボーイの涙は止まらない
フロントは黒い服を身につけている
みな淋しい通りで淋しい時を過ごしてきた
過去を振り返るヤツなど誰もいないそこではみな一人ぼっち、
みな一人ぼっち
みな淋しくて
死にそうだ

もしも恋人に捨てられて
グチをこぽしたいのなら淋しい通りにあるハートブレイク・ホテルに行きな
おまえは一人ぼっち、おまえは一人ぼっち
淋しくて死にたくなるぜ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋入たちが
自分の悲しみを嘆く場所
おまえは一人ぼっち、みな一人ぽっち
淋しくて死にたくなる場所さ

彼女が俺を捨ててから
新しい溜まり場を見つけた
淋しい通りのはずれにあるハートブレイク・ホテルさ
俺は一人ぼっち、俺は一人ぼっち
淋しくて死にそうだ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋人たちが
自分の悲しみを嘆く場所
淋しい気持ち、淋しい気持ちになる
みな淋しくて死にそうだ

ベル・ボーイの涙は止まらない
フロントは黒い服を身につけている
みな淋しい通りで淋しい時を過ごしてきた
過去を振り返るヤツなど誰もいないそこではみな一人ぼっち、
みな一人ぼっち
みな淋しくて
死にそうだ

もしも恋人に捨てられて
グチをこぽしたいのなら淋しい通りにあるハートブレイク・ホテルに行きな
おまえは一人ぼっち、おまえは一人ぼっち
淋しくて死にたくなるぜ
いつも混んでいるけれど
座るところなら見つかるぜ
傷ついた恋入たちが
自分の悲しみを嘆く場所
おまえは一人ぼっち、みな一人ぽっち
淋しくて死にたくなる場所さ


バックはギター/スコティ・ムーア、チェット・アトキンス、ベース/ビル・ブラック、ドラムス/D.J.フアンタナ、サン・スタジオからのメンバーにピアノ/フロイド・フレーマー、コーラス/ゴードン・ストーカーそしてチェット・アトキンス、が加わった。

エルヴィスはこれまでのサン・レコードで録音した楽曲とまったく違うものに取り組んだ。
それはゴールデンレコード第1集を聴いても歴然だ。他の楽曲と一線を画している。世の中もRCAもこの段階でまだ”ロックンロール”あるいは”エルヴィス・プレスリー”がなにかよく見えていない。R&Bでもカントリーでもないし、そうでもあるような。ピアノも加わった。

曲は暗く陰鬱。最初は伴奏もなく、全編ほとんどアカベラに近い。サンのオーナー、サム・フィリップスは懸念したが、エルヴィスは自信を持っていた。

ロバート・ジョンスンを超えるつもりがあったのかも知れない。エルヴィスはエルヴィス・プレスリーなのだから。

かってサンのドアを開いた時の質問に答えて「ボクは何でも歌えます、ボクは誰にも似ていない」と語った言葉をそのまま実証した。エルヴィスにとって歌とは自らの情念を沸点の極限までに叩き込むことに他ならない。

音楽に対しては、それ以外の興味を持っていなかったのではないかと思える。

その後、ビートルスやビーチ・ボーイズがやったような電気技術を駆使した音楽とは全く別の世界にエルヴィスは価値を見い出していた。歌も楽器もコーラスも生の音楽、歌こそ自身の知性。生の音楽だからこそ魂は宿る。ロックの歴史でエルヴィスにもっとも近似しているのは1977年のロンドン・パンクだと思えるのはそのような理由からだ。

エルヴィスはクラシックとジャズは分からないと明言していた。しかし<ハートブレイク・ホテル>にはジャズの匂いすらしてくる。

ロバート・ジョンスンが一本のギターでふたり分のプレーをしたように、エルヴィスの声がピアノもベースも演奏しているように聴こえる。静かなドラムビート、ピアノは血が流れる音のように聴こえる。ギターとピアノの”ジャンジャン”がエルヴィスの魂の動きにズレているように聴こえる。エルヴィス・プレスリーの中に住む天使と悪魔が葛藤しているのだろう。