アメリカには世界有数の消費社会だが消費文化に対する対抗する文化(カウンター・カルチャー)が途切れることなく根強く流れている。
善良な人々が自分達の土地から追い出され、路上で放浪させられて、飢えに迫られていく。故郷を捨て自分達の進む道をカリフォルニアに見出そうとする。
1957年に公表されたジャック・ケルアックの「路上 (ON THE ROAD)」は51年に書き上げられていた。しかし公表されたのはロックンロール全盛の57年になってからだ。
ロックの過激さがビート族にもスポットライトをあてた。
ティーン・エージャーなる新しい言葉もロックンロール時代に誕生したマーケティング用語で、10代は市場のターゲットになった。
<花開くカウンター・カルチャー>
ジョン・レノンが「エルヴィス以前にはなにもなかった」と語ったが、エルヴィス登場によって一気にカウンターカルチャーの花が咲いた。
その1年前、1956年、日本では石原慎太郎の「太陽の季節」が出版され、芥川賞を受賞。創設間もない日活映画によって映画化された。
その時、風俗アドバイザーとして製作に関わった石原裕次郎が脇役で出演。そのインパクトを買われ「狂った果実」で主演。またたく間に、日活を代表するスターとなった。
この当時、邦画五社(東宝、松竹、東映、大映、新東宝)は、協定を結んでいた。俳優とは専属契約を交わし、無断で他者作品に出演できないようにしていた。
同時に自社作品を公開する劇場とも契約を交わし、他社作品を公開しないように契約していた。
これらから、契約劇場には、作品を提供し続けなければならず、量産体制をとっていた。
これがプログラム・ピクチャーと呼ばれるシステムだった。毎週自社のスターを主演に使い2本の作品を提供し続けた。1958年には年間500本以上の作品が製作され、入場者数も11億人を超えていた。
量産による駄作も多かったが、抑えられた費用と撮影期間で、名作も数多く製作された。
それはプロフェッショナルの意地が輝いた作品といえるだろう。そこからカルト映画もたくさん誕生した。
しかしテレビが過程に浸透するとともに映画は衰退をたどった。
ロックンロール、ブリティッシュサウンド、フォークなど、その時々にアメリカン・ミュージックが輸入され、また日本ナイズされてきた。
J-POPSの最初のヒーローは加山雄三だっただろう。英語が堪能で最初のアルバムは全曲英語で創って歌われいた。やがて日本語の歌詞がつけられ、大ヒットした。日本語で歌われた国産ポップスのはじまりだった。東京オリンピックの頃だ。
その後荒木一郎など多彩な才能がヒットチャートを飾ったが、そのほとんどは、それまでの音楽業界以外からのアプローチだった。
それらは日本の音楽会の基礎となった。やがてアメリカ留学をした竹内まりや など希有な才能が登場した。
以後、 ブランキー・ジェット・シティ、椎名林檎、多彩なジャパニーズ・ポップスが登場しているが、 常に日本語との戦いであるといえる。それゆえの楽しみでもある。